人間の生命力と、効力感(エフィカシー)と無力感

 人間は神さまがつくった最高傑作だ。人間にはかぎりない生命力が宿っている。本来はそういうものであるという。作家の浅田次郎氏はそう言っていた。これははたして本当のことなのだろうか。にわかには信じがたいところもないではない。

 かりに人間が優れたものであるとすれば、人間には高い効力感(エフィカシー)があるということだとできる。じっさいに、高い効力感をもっていて、それを用いることができるときはあるだろう。

 いついかなるさいにも高い効力感をもっていられるとは限らない。ときには無力感におちいることもある。それが行きすぎると、希望をもつことができずに、絶望におちいってしまう。出口なしの、実存による限界状況だ。

 困難なことに見まわれたときに、そこから脱することはできるのだろうか。やくざの世界では、つきに見放されるのを、くすぶりと言うらしい。自分がくすぶっているときに、そこからたやすく抜け出すことができるかというと、そうは行かないこともあるから現実は難しい。

 人間は高い効力感をもつことができるときはあるが、それができるのは、あとからふり返ってみて、成功したというふうに見なせるときだろう。または失敗をそれほど苦にしないのによる。そこには生存者の認知の歪みが避けがたくはたらく。その認知の歪みは、必ずしも悪いものではなく、個人の生においてはよいものではあるかもしれない。それはあるにしても、高い効力感を確証(肯定)できるだけではなく、反証(否定)することができるのはたしかだ。

 いまの日本では経済において格差がおきているのがある。せち辛く、ぎすぎすしていて、生きづらくなっている。悲観によってしまっている見かたではあるが、みんながもれなく生きて行きやすいようになっているとは見なしづらい。これはなぜかというと、一つには、尊厳の分配に社会の中でむらがあるためだろう。尊厳の分配が社会の中で不公平になっている。そのために、社会が保ちづらくなっている。人によって、自己尊厳(セルフ・エスティーム)が持てたり持てなかったりしている。むらがあるのを改めて、公平にならすことができればよい。