歴史のネタ化

 歴史がネタ化する。新しく出された、愛国の色あいが大きいとされる歴史の本には、それがかいま見られる。ネタ化した歴史だと見られる。内容の中には非や一貫していないところがあるということだ。ウェブのウィキペディアから多く引用しているようだが、そのことへのことわりがないのだという。

 ネタ化してしまっているので、現実に根ざしていないような、都合のよい歴史修正主義がとられてしまうことになる。ネタになっているのを真実の歴史だと受けとるのは、それぞれの人の自由ではあるものの、適したことだとは言えそうにない。

 歴史をネタ化して、都合よく歴史修正主義を行ない、それをネタとはとらえないままに受容する。これは日本に似つかわしいことだ。おあつらえ向きのことだ。

 ネタによって虚構の歴史をとってしまうのはのぞましいことだとは言えそうにない。いくら日本に似つかわしくおあつらえ向きだとはいっても、ネタが現実化するわけではなく、とって代わるものではないので、そうするのに歯止めをかけることがいる。

 日本には、ネタをつくったり受け入れたりすることを好むところがあると言われるが、それによって歴史を勝手に変形させてよいものとは言いたがい。もともと日本では何ごとにおいてもネタにおちいってしまいやすいのをあらかじめ見こしておき、歴史においてそうなるのを避けるようにしたい。歴史修正主義をできるだけとらないようにしたいものだ。

 ネタは軟派なものだが、そちらに流れてしまうのではなく、硬派なものにして、根拠を明らかにしたり、一方的ではなく双方向のやりとりをしたりして、開かれたあり方にすると、教条(ドグマ)による閉じた物語になるのを防げる。

 一人の人間が、日本の歴史をはじまりから現在まであらわすのはできづらいものだろう。はじまりから現在まで、そのすべてにおいて、まったく何の取りこぼしや漏れがなく、まちがいがないものにするのは、神さまでもない限りは可能なことだとは言いがたい。人間には合理性の限界がある。

 一般的にいえば、はじまりから現在までという総論ではなく、細分化して各論にしたもののほうが、より正確なものにしやすい。ものごとの全面ではなく一面のほうがとらえやすい。その一面である各論の中にも、色々な意見や見かたがとれる。一つの意見や見かたに限られるものではない。

 歴史をあらわすさいには、まったく何もないところからではなく、何がしかの資料によるものだろう。その資料を集めるさいに、送り手(資料を集める人)の思わくが入りこむ。無目的にやみくもに資料を集めるわけには行かない。何らかの思わくがないことには資料を集めようがない。そこに偏りがおきてくる。

 集めた資料そのものにも、その内容に偏りがある。それを受けとる送り手(資料を見る人)も偏って受けとる。送り手は偏って受けとった内容をあらわす。何重にもわたって偏りがおきて、差異がおきることになる。

 おきたことそのままのまったく偏りのない同一の歴史を直接にあらわすことはできづらい。差異がおきることになる。歴史をあらわすさいに、過去の歴史の真実を直接にあらわすことは困難だ。直接にはできるものではなく、すでに何らかの特定の思想に媒介されている。

 媒介ぬきにはできるものではないので、歴史をあらわすさいに、それを直接に真実をあらわしたものだというのなら、神話(ミュトス)にならざるをえないのがあるのではないか。このさいの神話とは、何かを隠すことによる騙(かた)りということである。あくまでも人間の分をわきまえながら、開かれた中でやり取りをする形において、(一〇〇パーセントの絶対化を避けつつ)真実の近似値に近づいて行くというのが安全だろう。