誤解をまねいてなぜ心苦しく思うのだろうか(誤解をまねいたことについて、政治家として謝罪をするのがあってもよいのではないか)

 誤解をまねき、心苦しく思っている。自民党の議員は記者にそう語ったという。これは、雑誌の記事において、性の少数者は生産性がない、と議員が言い、波紋を呼んだことについての弁明である。

 議員は弁明において、誤解という語を用いているが、これはしばしば政治家の言い訳の中で聞くものである。言い訳の中における、この誤解の語はやっかいだ。すじ道が通らなくなるのがある。

 誤解をまねき、心苦しく思うとのことだが、まず、誤解をまねきと心苦しく思うのあいだを切断して待ったをかけたい。政治家が本当のことを言うのだと見なさなければならない義理はとくにないから、うのみにすることはできないものだ。

 議員のあらわした雑誌の記事が、受けとるさいに誤解されたというのは、疑わざるをえない。誤解されているという具体の証拠がないと、信じることは難しい。

 国会において、自由民主党の権力をになう政治家は、ご飯論法や信号無視話法をよく用いているが、それと同じようなことになっている。議員のあらわした雑誌の記事が誤解されているとの言い訳は、投げかけられた批判にたいする受け答えになっていない。

 誤解をまねきというのを言い換えられるとすると、それは緊張(テンション)だと見られる。緊張がおきているのを、誤解をまねきとはぐらかして言ったところで、その緊張が和らぐことにはならない。

 投げかけられた批判にたいしてまともに向き合って受け答えることによって、緊張は和らぐ。緊張を引きおこしたのは議員なのだから、それをそのままにするのは政治家としての責任をとることにはなっていない。厳しく言えばそう言うことができる。