生死は勝ち負けの文脈ではなく、権利と義務の文脈で見られる(生存権その他の権利が人によって十分ではない現状がある)

 死んだら負けである。それをもっと教えて行かないとならない。テレビ番組で出演者はそう言っていた。悪気があって言っているわけではないだろうし、必ずしもまちがっているわけではないが、個人としてはうなずくことはできそうにない。

 死んだら負けだというのは、自殺したら負けだということだが、そうかといって生きていれば勝ちなわけではない。生きているだけで勝つわけではないだろう。生きているだけでは勝ちではないのは、社会の中でさまざまな悪いことやまちがったことがあるのによっているのがある。

 テレビ番組の出演者は、自殺をしてしまったことの原因はわからないものだという。たしかに、本当の原因はわからないのはある。しかし、たんに自殺がおきたという結果だけで負けだと見なすのには納得が行かない。結果だけで負けだとするのではなく、本当の原因はわからないのはあるものの、なぜということができるだけ問われなければならない。

 一般論でいえば、自殺を加速してしまう因子と、減速する因子があるという説がある。加速する因子が多かったことで自殺にいたってしまったことがうかがえる。それは負けたことを意味するものではないだろう。そうではなくて、その人をとり巻く外の環境である社会が悪いのである。

 自殺を加速してしまう因子は、色々な問題を一人でかかえこんでしまうことがある。つながりや関わりをとることができない。問題を色々とかかえていて、それが深刻なものであり、かつつながりや関わりがとれないと、視野がどんどんせまくなってくる。視野がどんどんせまくなってしまうのは、個人がおかれた大きな不幸ではあるが、負けということではないだろう。

 自殺というのは、じっさいには形を変えた他殺なのであると、作家の安部公房氏は言っている。ことわざでは、悪貨は良貨を駆逐するだとか、憎まれっ子世にはばかるだとかというのがある。死ぬのは負けで、生きるのは勝ちかというと、そうとは言えず、善人であるほど世の中で成功して、長く生きながらえるとは言うことはできない。

 世の中には色々と悪いことやおかしいことがあるが、その中の一つに、個人の人格が十分に尊重されづらいのがある。人格が尊重されずに手段におとしめられてしまう。抑圧や搾取などの文化による暴力をこうむる。平準化や画一化の圧力がはたらく。同調の圧力にそむく人は疎外される。人が物であるかのように、質ではなく数字(数値)ではかられる。労働などでまっとうなあり方がとられていないことが多い。差別と憎悪表現のまん延がおきていて、(社会的)包摂ではなく排斥の動きが目だつ。共生にはほど遠い。神経が過敏で感じやすい人ほど生き苦しくて生きづらい世の中であるとおしはかれる。精神や身体の根ぶかい疲労がひどくたまってたいへんな生き苦しさや生きづらさにおちいるのは、社会の構造に問題があると見てさしつかえがない。