お前もそうじゃないか、と言われてしまうさいの対処法(有効なものである保証はできないものだが)

 あることを相手に言って、相手から、お前もそうだろ、と言い返される。相手を批判したときに、その相手から、批判を投げ返される。相手に向かって、嘘をついたではないか、と言ったとすると、その相手から、お前も嘘をついていただろ、と言い返されるようなものだ。

 相手を批判して、その相手から批判が投げ返されるのは、類似性による反論がとられている。類似性が成り立つことによって、批判が投げ返されて、ブーメランが返ってくるようになる。ブーメランが返ってこないようにすることはできるのか。

 ブーメランが返ってこないようにするには、類似性が成り立っていないとすることで返ってこなくさせられる。類似性が成り立たないようにする手として、次元を変えてしまう手がある。次元をずらすようにするものだ。次元をずらして、高い次元において、類似性をとれるようにする。

 相手から批判を投げ返されるのを、高い次元に移すようにする。相手から批判を投げ返されて、ブーメランが自分に返ってくるのは、相手が言っていることが正しいということが前提条件になっている。絶対に正しいとなっているとすると、それを相対的に正しいものにする。まちがっているおそれがあると見なす。相手が言っていることをカッコに入れる。

 ブーメランが自分に返ってこなくさせることは厳密にはできづらいが、ブーメランを行ったり来たりさせて、自分にも相手にも行き来して定まらないものにすることはできる。ブーメランがこちらにだけ返ってくるのではないようにする。

 ブーメランがこちらにだけ返ってくるのではないようにして、相手にも返って来るようにする。ブーメランを行き来させる。そうなるようにするために、社会学者のカール・マンハイムの言う存在被拘束性をとるようにする。自分だけではなく相手もまた存在被拘束性をまぬがれてはいない。純粋な客観ではなく、主観をまぬがれてはいない。

 存在被拘束性において類似性があるので、ブーメランが自分にだけ返ってくるのではないとすることができる。肉を切らせて骨を断つとか、おあいこにもって行くようなあんばいだ。

 こちらの言っていることがまちがっているということにはなっていないとすると、こちらの言っている内容については正しいものだとすることができる。こちらの言っている内容については相手から反論を受けて否定されているわけではないので、こちらの言っている内容の点に関しては正しい見こみは保たれている。

 ブーメランは自分と相手のどちらにも投げられるものなので、どちらにブーメランが行くのでもまちがいではない。どちらでもかまわないことから、自分の精神の中で、相手にブーメランを投げるようにする。このさいに、相手の言っていることをそのまま受け入れることはとくにない、とすることができる。相手の言っていることが必然として絶対に正しいとは限らないのだから、信用しなくても必ずしもかまわない。自分を本位であるとすれば、そうすることができる。

 ブーメランを投げたほうが精神として優位に立ちやすいので、自分が投げられる側ではなく、投げる側に立っていると思いこむ。それで気持ちとしてちょっと優位に立つ。自分の論の内容がまちがっていると言われたわけではなく、ちがう論(異論)が立てられたにすぎない。その異論は自分の発言にたいする反論ではあるが。さらに、自分が気持ちとして優位に立つために、相手の言っていることを全面的には信用しないで、言葉どおりには受けとらないようにして、うのみにしないで疑う。それで自分の気持ちを保つようにする。あくまでも気持ちの持ちようにすぎないものではあるが。