日本は国として過去の負の歴史に向き合い、責任を果たしているとは言いがたいから、そこを改められればのぞましい(負の痕跡を隠ぺいして抹消してしまっている)

 戦争で亡くなった人たちを、尊い犠牲であると言う。このさいの犠牲ということを見ることができる。亡くなった人たちにはもうなすすべがなくなってしまっているが、生きている人でも犠牲になった人がいる。その人たちへの責任を日本は国として果たしているとは言いがたい。

 責任を果たすためには、戦争によって犠牲となった人たちが言う声を聞き入れるようにすることがいる。その声を聞き入れようとはせずに、耳をふさいで無視してしまう。犠牲となった人をすべて対等にあつかうのではなく、民族のちがいによって分け隔てて差別してあつかっているのがある。歴史を都合よくねじ曲げて修正(歪曲)してしまう。そんな傾向がいまの政権にはこれまでよりいっそうかいま見られる。

 日本には日本の正義の建て前が戦前や戦時中にはあったことは確かだろう。ほかのアジアの国を西洋の植民地の支配から解放するとか、ほかの国に文明をもたらして発展させるとかいうものである。それは建て前としての正義ではあるが、じっさいに日本がなしたことは正義とは言いがたい。もし日本が正義を行ない、不正義を行なわなかったのであれば、日本の国内やまわりの国から多くの犠牲者が出るはずがない。尊い犠牲というのは欺まんにほかならないものであり、それは日本が不正義を行なったことのあかしを立てているものであるのはまちがいない。

 戦争で亡くなった人たちを尊い犠牲であると言うのは欺まんであるが、それは別にして、戦争で犠牲になった人たちにたいする責任を、日本は国として力を入れて果たして行くことがいるのではないか。そうはいっても、責任というのは果たしづらいところがあるのは確かである。そこを気持ちのうえで乗り越えて、過去の負のことがらと向き合うようにするのがのぞましい。日本の社会における呪われた部分は、日本の中だけではなくまわりの国にも広くおよぶものである。そこを重んじないで軽んじてしまう現状のあり方のままでは、日本の社会の中から差別や抑圧や搾取などがなくなることは見こみづらい。