東京五輪のために基本的人権を制限したり規制したりするというのは、受け入れがたいものである

 二〇二〇年に開かれる東京五輪では、基本的人権の制限も必要だ。テレビ番組の中で評論家はそう言っていた。基本的人権が許される枠の中で、あるていどの義務を負うべきだとのことだ。別の出演者は、あるていど規制して監視社会にしないともたないと言っている。

 この発言にたいして、またちがう出演者は、基本的人権の制限はよほど慎重でないといけないとしている。日本においては、非常時に制約したものが日常化する懸念があるとのことだ。

 東京五輪のために、基本的人権を制限したり規制したりするという発想は、うなずけるものではない。基本的人権は制限したり規制したりできないものであり、一人ひとりの人間からうばってはならないものだろう。それを制限したり規制したりすることができるというのがちょっと分からないところだ。

 東京五輪のために基本的人権を制限したり規制したりするのであれば、東京五輪のもよおしは人権の侵害であるということができる。東京五輪のもよおしは憲法に違反しているという見かたが成り立つ。憲法に違反しているもよおしを行なうのは許されるものなのだろうか。

 たしかに、東京五輪では、テロなどが危ぶまれるのはあるのだろう。それが危ぶまれるのがあるのだとしても、そこから基本的人権を制限したり規制したりするというのだと、飛躍していると言えるだろう。テロなどを防ぐために、基本的人権を制限したり規制したりする必要性が定かではないし、許容できるものとも言いがたい。もっと前の段階で色々とできることがあるだろうから、それをやるのでないと、基本的人権を持ち出す正当性はないだろう。

 テレビ番組の出演者は、監視社会にしないともたないということを言っているが、理想としては監視社会にしなくてももつ社会にするべきである。東京五輪のもよおしのために監視社会にするというのは必ずしも結びつくものではないし、国家の公を肥大させてしまう危なさがある。戦前や戦時中は、国家の公があまりにも肥大してしまったために、みながみなを監視し合うようなことになり、個人の私はとれなくなったのがある。国家の公ではなく個人の私をとることができるようにするのが、基本的人権をとることである。

 テレビ番組の出演者は、基本的人権を制限したり規制したりするのがいるとか、監視社会にすることがいるとかと言っているが、それとは逆に、東京五輪のもよおしをきっかけにして、基本的人権をもっととれるようにするべきである。いまの日本の社会は、政権与党である自由民主党による失政の影響もあり、社会的弱者や経済的弱者にはとりわけ生きづらいものになってしまっている。そこを改めることができればよい。

 東京五輪のもよおしをやることはすでに決まっているが、それをやるにせよやらないにせよ、基本的人権は一人ひとりの人間においてもっととられるようにしないとならない。建て前のきれいごとを言うのにすぎないのはあるが、そこは言っておきたいところである。