虚偽の報道をしていると特定の報道機関を決めつけてしまうのは必ずしも正しいことではない

 虚偽の報道をしている。そのように報道機関のことを決めつけてしまうと、ステレオタイプの見かたになる。虚偽の報道が問題だというよりも、むしろステレオタイプの見かたのほうが問題なのではないか。どちらかだけがまずいというのではなく、どちらもまずいということではあるかもしれない。

 かりにステレオタイプのほうに焦点を当ててみるとすると、虚偽の報道ということについて、改めて見直すようにすることができる。虚偽の報道も中にはあるだろうけど、そうであると決めつけてしまうのは、臆見(ドクサ)や偶像(イドラ)によっているのがある。それらによって認知のゆがみとなる。そのゆがみは、ものさしによるから、ものさしを改めるようにすることができればよい。

 ものさしを絶対のものとはしないようにすることができれば、認知のゆがみを少なくすることにつなげられる。そのうえで、虚偽の報道が行なわれているのを批判することができれば、決めつけではないようにすることができる。報道をする方と、それを受けとる方の、どちらかというのではなくて、どちらにおいても、純粋なわけではなく、不純なものである。何らかの形の認知のゆがみが少なからずはたらいていて、それを完全にはまぬがれられない。