モリカケに問題があると見ることはできるから、それを重大なものとしたり深刻なものとしたりすることができる(それとは逆の見かたもできるのはある)

 モリカケよりも、もっと大事なことがある。森◯学園や加◯学園の問題をやるよりも、災害などのことをとり上げたほうがよい。与党の議員の人はそう言っているけど、モリカケよりも災害などをとり上げがほうがよいのだろうか。

 もしそうするのだとしても、モリカケをたんに棚上げや先送りすることになる。夏休みの宿題をやらないでいるようなものである。ほかのことと比べて、モリカケよりもちがうことをとり上げるというのだから、モリカケをとり上げるかどうかを単体で見ているのではない。

 モリカケは、というふうに言うと、象徴として見なすことになるのがある。それに待ったをかけられるとすると、モリカケについて、問題の所在を見るようにすることができる。せっかくであれば、それを見るようにするとよい。問題の所在を見るようにして、根本の本質は何かを見るようにする。そうすれば、表面をとらえただけの皮相な見かたを避けられる。根本の本質を見て行くさいには、モリカケという個別のことと、それを一般化したものとで、寄って見たり引いて見たりするのができるとよい。与野党の立ち場を入れ替えてみて、同じことが言えるかどうかを試してみる。

 モリカケはどうだというふうに言ってしまうと、あたかもそれを分かっているようなふうになるけど、そうして自明とするのではなく、不明なものとして見ることがふさわしい。まだ結論は出ていないのがある。政権与党は勝手に自分たちに都合のよい結論を出してはいるが。モリカケというのを要素に分解して行き、要素の一つひとつをそれぞれでくわしく見て行くことができる。

 モリはモリで、要素に分解することができるし、カケはカケで、同じようにすることができる。モリはモリで、色々な文脈を持ち替えられるし、カケはカケで同じようにすることができる。そうすることによって理解が少しずつ深まって行く。理解がごく浅いままに、モリカケと一つにまとめてしまうと、問題の所在である根本の趣旨を見ることにつながりづらい。調べが終わっていないので、結論を出すのはまだ早いのはあるから、あくまでも仮定をとれるのにとどまっている。

 モリカケはすみやかには片づいていなくて、時間がかかってしまっているけど、その理由は政権与党や省庁が事実をきちんと認めようとしないからなのがある。事実を認めようとしないで、自分たちの保身に走っている。保身に走り、自己防衛をしてしまうと、議論は成り立ちようがない。議論では、事実を認めるという原則をとらないと、いったい何のためにやっているのかということになる。原則が破られてしまうと不毛である。

 政権与党や省庁は、いいかげんなやり方でモリカケを中途半端にうやむやにして終わらせようとするつもりだろうが、それではたして危機は去ったのだろうか。むしろ危機はさらに広がってはいないだろうか。モリカケはたんに一つの個別のできごとというにとどまらず、形式としてさまざまなことに広く波及することがない、と言い切ることはできそうにない。

 モリカケをほんとうにきちんと片づけようとするのであれば、片づけ役に活躍してもらわなければならない。片づけ役に活躍してもらうには、政権与党が居すわっている秩序をいったんカッコに入れることがいる。政権与党が(ふてぶてしく)居すわりつづけているふだんの秩序をカッコに入れて、それとはちがう反世界をとるようにする。反世界では、中心が周縁になり、周縁が中心になる。周縁に追いやられているものが中心にきて、汚れを片づけてもらう。

 中心と周縁を逆にするのがのぞましいが、それをしないで、固定させてしまっているから、モリカケは片づかないのである。うやむやにされてしまう。そのことをよしとして、政権与党に付和雷同する報道機関も見うけられる(N◯K など)。付和雷同するのではなく、思いきって反世界にするくらいでないと、中心はいつまでも汚れたままで、さらに汚れて行くだろう。中心と周縁が流動に入れ替わるのが民主主義だと言える。しかし中心と周縁が固定してしまい、周縁を悪玉化してこと足れりとするのでは、汚れがたまってよどんでしまう。周縁を排除することによる欺まんの秩序である。