差別をなくすというよりは、差別をやらないようにすればよいのがある(差別をなくせればのぞましいのはあるけど)

 差別をなくすことは、差別者を排除することではない。差別する人を差別しない人に変えることである。そうであるけど、じっさいには、差別する人を排除してしまう人が多く、それは差別者差別である。こうしたツイートを見かけた。このツイートでは、つづいて、差別者を差別しようとする人は、差別とはちがうほかのことについても、自分の気に入らない人を排除しようとする、としている。

 個人としては、このツイートで言っていることにはうなずきづらい。たしかに、差別する人を差別しない人に変えることは大事なことだろう。それが差別をなくすことなのだというのはまちがっているとは言えそうにない。しかし、理想論としてはそれは言えるだろうけど、現実論としては必ずしも通りそうにない。

 ツイートでは、差別者を差別しようとする人は、差別とはちがうほかのことについても、自分の気に入らない人を排除しようとする、と言っているけど、これはステレオタイプの見かたになっている。何々という人は何々だ、と言っているのである。こういう決めつけは独断と偏見になりかねないのでのぞましくない。現実にはいろいろな人がいるはずである。

 差別する人を排除するのではなく、変えるようにするべきだということだけど、そうではなくて、差別しないようにすればよいだけのことである。差別する人が差別しない人に変わる必要はあまりなく、差別をしなければそれでよい。そのうえで、差別をしない人に変わればそれに越したことはないけど、そこまでのぞまないでも、たんに差別をしないようにするだけでもとりあえずはよいのがある。

 差別する人を排除する人は、差別者差別だということだけど、それの何がいけないのだろうか。差別する人を排除しないようにするのがよいのであれば、差別する人を差別する人もまた排除しないようにしないとならない。そうでないと不公平である。差別者差別も差別の範ちゅうに当てはまるのだから、その人を排除するのではなく、変えるようにすることがいるだろう。ツイートで言っていることの理屈としては、そうなると言える。

 自由主義では、自分が何をやったり言ったりするのかの自由があるけど、他者の迷惑になったり、危害を加えたりすることは、やるのをつつしむか、やらないようにしないとならない。差別をされる方としては、迷惑をこえて、危害をおよぼされることになるのだから、差別はしてはならないことに当てはまる。してよい自由はないものだろう。それをする人にたいしては、急場の手だてとしては、やってはいけないことだという注意をするのはあってよいはずだし、物理の暴力ではない形でふせぎ止めることはまちがったこととは言えそうにない。意義のあることである。

 中期や長期の視点として、社会の中で差別がおきないようにしたり、差別をする人がしない人に変わるようにしたりするのはのぞましいことだと言える。それとは別に、短期の視点というのがとれる。そのときその場で、差別がおきているのにたいして、それはおかしいとかいけないとかという抗議の声をあげたり、くい止めたりすることは、ただ傍観しているよりもずっと勇気のあることだ。差別をする人を排除することにはなるかもしれないが、ひと口に排除といっても、物理の暴力でないものであれば、穏当な排除というのも成り立たなくはない。穏当な排除というのは制限をかけることである。

 差別をする人が、差別の形ではなく、ほかの形でもってして言いたいことを言ったりやりたいことをやったりするのなら、かまわないものだろう。差別という形を用いてしまうからいけないことになる。ついうっかりというのがあるかもしれないから、そうしたことであれば、次から気をつければよいけど、それとはちがい、根深いものもある。根深ければ、そんなにすぐに変わることを期待はできそうにない。気がついていないで、根深い差別の見かたをもってしまっているかもしれないから、人ごととは言えないのはある。

 たとえばではあるけど、愛国ということで、差別をすることになるのがある。そういう人がいると仮定できるとして、その人は、愛国はよいことであり、差別をするのはそのよいことにかなっている、みたいな見なし方をしていることが察せられる。その見なし方はけっこう根深いものだろうから、変えると言ってもむずかしいことになる。その人を変えようとするのなら、変える方にそうとうに根気がなくてはならない。そうしたひどく根気のいる作業はおいておいて、さしあたっては、差別をするのはよくない、ということで動くほうが理にかなっているものだというのがある。