野党が国会に出てこないのは、野党が国会に出てくるようになれば(すれば)解決するものではない(出てくるか、出てこないかの問題ではない)

 野党は国会の審議に出てこない。国会に出てくるのをさぼっている。十何連休もしている。そのように野党が国会に出ないのは、はたして悪いことなのだろうか。

 野党が国会に出てこないのはだめなことであるというのは、格律(マキシム)として見ると、普遍化することはできそうにない。いまは自由民主党は与党だけど、自民党が野党だったときに、国会に出てこなかったことは少なくなかったという。自分たちが野党のときに、国会に出てこなかったことが何回もあったのだから、与党になったときにそれを無かったことにしてはならないものだろう。

 与党は国会には出ているかもしれないが、野党とのあいだにうまくかみ合った議論が成り立っていない。これを野党のせいにすることはできづらく、与党のせいだと見ることができる。聞かれたことにきちんと答えていなくて、聞かれたことと関係のないことをだらだらとしゃべる。これは議論の拒否である。国会には出ていても、議論を拒否することはできるのだから、たちの悪いことである。与党は、識者が名づけたご飯論法などを用いながら、議論を骨抜きにしている。

 与党は、野党にたいする根強い感情の不信を持ってしまっていると見うけられる。感情の不信を持って見下すようにして、与党は野党のことを見なしている。お互いさまというのはあるだろうけど、与党は野党を気持ちの中で見下して排斥している。この見下しや排斥は、与党からの野党への国会における不規則発言(やじ)に一つにはあらわれている。野党は、そうしたあつかいをされることに気づかないことはない。国会に出てくる気をなくしてしまってもおかしくはなく、やる気をそがれる中で、国会に出てこなければならなくなってしまっている。

 国会に出てこないのは駄目だとは、必ずしも言い切ることはできそうにない。場合分けをすることができるとすると、国会に出てくればよいというわけではなく、いまの与党のあり方のように、国会に出てきてもまるで駄目なことがある。国会に出てこなくても、それだから駄目だとは必ずしも言えず、ちゃんとした理由があって国会に出てこないこともある。ちゃんとした理由もなく国会に出てこないのであれば、それは駄目なわけだけど。

 野党が国会に出てこないというのは、一つの現象である。出てこないのを出てくるようにうながすのは、現象を引きおこしている原因をとらえているとは見なしづらい。やる気がないときに、やる気を出せ、と言っているようなものである。やる気がないのは、何かの原因によっているとできるから、その原因を見つけて対処すれば、改善が見こめる。そうしたように、表面の現象によるのではなく、それとは別の原因をさぐったうえで、それによって評価や判断をするのでも遅くはない。

 与党は過半数以上の議席をもっているのだから、強者であるといえ、いっぽう野党は弱者である。これは、絶対の強者や弱者というのではなく、あくまでも相対のものである。強者が弱者にむりやりに話し合いの場に出てこいというのは、弱者のことをおもんばかることにはなっていない。強者は、自分たちのやろうとしていることを、数の力で通してしまえるのだから、弱者のことを軽んじてしまいやすい。

 強者や弱者といっても、相対のものにすぎないし、数の少ない弱者を軽んじてしまったとしても、それでよいではないかとか、何が悪いのかというふうな意見もあるかもしれない。それについては、与党による数の力は、正しいこととはまた別だから、そこを分けて見ることがのぞましい。数の力をもっている与党が、正しいことをやるという保証はまったくない。それは、働き方改革高度プロフェッショナル制度などに見うけられるものだろう。