非倫理と虚無主義のいちじるしい退廃の空気によっているのだとすると、国会で与野党がやりとりをする意味ははたしてあるのだろうか(非倫理と虚無主義を少しでも改めたほうがよい気がする)

 国会に出ないでいるのはのぞましいことではない。ふつうはそう見なせるものだろう。国会に出ないでいるのは離脱(ディタッチ)であり、国会に出るのを参与(コミット)とできるとする。ふつうは国会に出るのがのぞましいが、ふつうではないこともありえないではない。

 ふつうではないのであれば、国会に出ないことも肯定されるのではないか。選挙で選ばれた代議士(政治家)が国会に出るのはふつうのことであり、自明のことである。その自明であることをカッコに入れてみることができる。カッコに入れて、ふつうであるのを改めて見るようにすることで、ふつうであるからよいとするのに待ったをかけてみたい。

 ふつうであることによってかえって悪くはたらく。自明であることをとり外してみれば、そういうふうに見ることができる。国会に出るのがふつうのことであるとすると、むしろ逆に国会に出ないようにするのがいることがあるのではないか。国会に出ないようにするというのをもっとつっこんで言うと、国会に出る資格が無いのではないかということだ。

 国民にたいして嘘をついたり、虚偽の答弁をしたり、重要な記憶をなくしたり、ごまかしたりするのであれば、国会に出て話し合う資格はない。厳しく言えばそのように言うことができるものだろう。あたかも、さも当然のごとくに国会に出る資格があるかのようにふるまうのは、おかしいことなのではないだろうか。

 国会に出ないでいて、野党は何連休もしているというふうにいうのがあるけど、そのいっぽうで、下手の考え休むに似たり、なんていうことわざがある。たとえ国会を休んでいないのであっても、下手の考えであるのなら、休むに似たりだ。上手に話し合うのならよいけど、そうでないのであれば、下手の考えであり、休むに似たことであると言わざるをえない。休んでいる方がましであり、休まないでいることで悪くなってしまうこともないではない。

 国会を休まないのがよいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。野党が気持ちよく国会に出てこられるように、与党は自己修正をするべきではないだろうか。国会を休んでいる野党にたいして、猛省をうながしたいと与党の議員は言っていたけど、これだと自己修正はできていないし、するつもりがなさそうだし、一方的になってしまっている。双方向でやって行くようにすることがいる。

 いちじるしく倫理観が欠けているのであれば、いくら選挙で選ばれているとはいっても、国会に出てくる資格はないのであり、それを与党は少しくらいは省みてみたらどうだろう。いちじるしく与党の倫理観が欠けてしまっているわけではなく、そこまで現実はひどくなければよいのだけど、じっさいにはどうもそこまでひどいもののような気がしてならない。