戦争をやってもよいというくらいの信任があるというのは、聞き捨てならない発言だ

 われわれは、選挙によって、戦争をしてもよいというくらいに信任されている。極端な話ではそのように言えるという。五年前に、政権与党の政府高官が記者に述べたことだそうだ。この政府高官が述べていることは、はなはだしいかんちがいであるのにほかならない。

 選挙によって、戦争をしてもよいというくらいに信任されているとは言いがたい。あくまでも限定的に信任されているにすぎず、絶対的に信任を与えられているわけではない。戦争をしてもよいというくらいに信任されているのだとすれば、絶対的に信任されているということになり、主権を絶対化してしまっている。主権を最上位に置いているものであり、危険なとらえ方である。

 戦争をすることになれば、国民にとって最大の不幸(の一つ)をまねく。自分たちの国を守るためには、戦争をするのではなくて、それを避けなければならない。戦争になれば、自国と他国の人々がぶつかり合うことになる。他国の人々や他国がもつ兵器(武器)によって、自国の人々に傷を負わせたり殺したりすることになる。

 戦争とは、他国の人々や他国がもつ兵器(武器)によって、自国の人々に傷を負わせたり殺したりすることである。哲学者のシモーヌ・ヴェイユはそのように言っているという。この戦争の定義によることで、(戦争はいけないことなのだという)平和主義をとることができる。自国の人々に傷を負わせたり殺したりするのであれば、それは不正義であると言わなくてはならない。

 確率は完全にゼロにはできないかもしれないが、できるかぎり戦争を引きおこさないようにして、その確率を引き下げるようにして行く。その義務を果たしてもらいたいものである。戦争は違法な手段なのだから、それをやらないようにする義務はあっても、やってよい権利は基本として無いはずである。建て前としてはそう言えるものだろう。

 人間は死の恐怖の経験をすることによってはじめて理性による反省をすることができる。死の恐怖の経験の生々しさが薄れて風化してしまえば、理性による反省も弱まってしまう。大戦という死の恐怖の経験をすることによって、理性による反省をとり、不戦の誓いがたてられる。この不戦の誓いは決してないがしろにすることはできないものだろう。戦争をやってもよいというのは、この誓いをはなはだしく軽んじるものであると言わなくてはならない。軽んじてしまうのではなく、その重みや意味を改めて見直すようにしたほうがよさそうだ。