権力者や、権力者に準じる人には、無罪推定を当てはめてそれでよしとすることは、必ずしも適したことだとは言えそうにない(権力チェックをすることがいる)

 リベラリズムとして、無罪推定をとるのがのぞましい。記者に性の嫌がらせをしたと見られている役人にたいして、リベラリズム(自由主義)の無罪推定を当てはめるのがふさわしいというのが言われていた。たしかに、性の嫌がらせをしたと見られている役人が無罪であると推定することはできそうだ。しかし、そのように見なすのがふさわしいことかどうかは改めて見ることができる。

 自由主義ということでは、無罪推定とは別に、反転可能性の試しをすることができる。性の嫌がらせをしたと見られている役人の人を無罪推定で見ることが、被害者からすれば、納得の行くあり方だとはちょっと見なしづらい。被害者とされる人からの告発を、寛容の原則を当てはめて見ることができる。寛容の原則を当てはめれば、被害者が虚偽の告発をしているという明らかな証拠がないかぎりは、虚偽の告発ではないという見かたが成り立つ(加害者とされる人の無罪推定とは別に)。

 一般人と一般人のあいだのことであるのなら、無罪推定によって見るのでよいけど、公人(役人)と一般人(記者)ということだから、おたがいが一般人のものとは同列にはあつかえそうにない。公人には説明責任(アカウンタビリティ)があるから、説明責任が果たされることがいる。録音という物の証拠があり、その音声の一方がほぼ当人(役人)だとされるのがあるので、まったくの白とは言いがたい。まちがいなく黒とも決めつけられないのはあるけど、まちがいなく黒ではないのなら、黒ではないとしてしまうのは、甘い見かただというのがある(厳しく言えば)。

 非の打ちどころのないほどの立派な人格をそなえていることはいらないとしても、国民の納税意識を保つことを損なわせるようでは、批判をされてもしかたがない。国民といっても色々な人がいるだろうから、あたかもすべてを代表するようなことは言えないのはあるけど、納税意識を保つためには、人となりがそれなりにきちんとしたようであってもらわないとならないのがある。

 たとえ建て前としてではあっても、政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)というのがあるのだから、それへの意識が薄いようでは、時代錯誤(アナクロニズム)の認識をもっていると見なせるのがある。政治的公正として、一般人よりも少し高いくらいの意識をもっていてもよいものだろう。昔とはちがい、時代は変わったのがあるのだから、それに合わせた意識をもっているのを求めるのは、そんなにおかしなことだとは言えそうにない。