証拠であるテープが残っていないのなら、必然として発言がなされなかったのだ、とは見なせそうにない(ほかの可能性がある)

 籠池氏はほとんどテープでとっている。(問題としてとり沙汰されていることを)妻が言っていたのなら、テープに残っているはずだ。証拠であるテープが無いということは、これはもう明確である。首相は国会においてこのように答弁していた。

 籠池氏はほとんどテープでとっていると首相はしているけど、これは、籠池氏が役人と交渉するさいに、あとにやりとりを残しておくためにとっていたものであるという。籠池氏と役人が交渉するやりとりをテープに残していたのであって、それ以外のことをテープに残していたわけではないそうだ。籠池氏は発言をテープに残すというのを普遍とすることはできず、特殊として見ることがいる。いついかなるさいにもという定言命法ではなくて、あることにかぎりという仮言命法によるものである。

 テープは証拠であり、それが残っていないということは、首相の夫人が(問題としてとり沙汰されている発言を)言っていないことになるのかというと、そうとは言い切れそうにない。テープには残していたが、それが記録されていたテープを紛失してしまうこともなくはない。たまたまテープにとり忘れてしまったということもある。はじめからテープにとるつもりがなかったのであれば、テープは残っていないけど、発言がされなかったことをあらわすわけではない。地球上のどこにも、または宇宙のどこにもテープが残っていないのかどうかは、確かめることができかねる。

 テープに残っていないことや、テープに残っていることは、実在(事実)である。それとは別に、発言がされたのならテープが残っているはずだというのは、必ずしも実在によるものではない。発言がされたのならテープが残っているはずだというのは、すごくしっかりとした前提というわけではなくて、けっこう頼りないものである。すごくしっかりとした前提だと見なすのであれば、籠池氏がテープをとることに、完ぺきに信頼を置いていることになる。テープを残すことにかけては、完ぺきに信頼が置ける人物だというふうに見なすのは、その人物のことを丸ごと信頼するものでもないし、自然なものとは言いがたい。

 テープを残すことにかけては完ぺきな信頼を置けるのだとすれば、その人の言うことにもそれなりの信頼が置けるのではないか。それとこれとはまた別な話というのもあるかもしれないが、まったく何の関連もない話だとも言えそうにない。首相の夫人の(問題としてとり沙汰されている)発言が無かったことが明確であるためには、籠池氏が何でもかんでも正確無比にテープにもれなくとっていることがいるけど、そういうわけではないのだから、発言が無かったことが明確であるということにはなりそうにない。ほとんどとっていたのだとしても、すべてではないのがあり、ほとんどというのはどれくらいなのかが確かではない。