いったい何だったのかがわからないのは、問題が体系としてとらえられていないせいだろう(責任のがれになってしまっている)

 いったい何だったのだろうか。その思いがきわめて強まった。森◯学園の問題において、当事者の一人である国税庁の元長官の証人喚問が行なわれた。その感想を聞かれて、自由民主党石破茂氏は先のように答えた。証人喚問で受け答えをした元長官は、問題には首相と夫人は関わってはいないとしつつも、誰がなぜという点についていっさいわからないとしている。

 石破氏は、いったい何だったのだろうかという思いがきわめて強まったと言っているけど、これは、森◯学園の問題がいったい何だったのだろうというのと、さきほど行なわれた証人喚問がいったい何だったのだろうというのと、どちらを指しているのだろうか。どちらかを指しているのか、それともどちらも指しているのかもしれない。

 首相と夫人は問題にはまったく関わっていないということは、一つの確証であり、政権与党はこのあり方をとっている。この確証はみんながみんなうなずくものではなく、確証とは不整合となるような状況証拠が残されている。不整合となるような痕跡があるとしても、それを重く見るのではなくて、確証のほうを重く見る。反証逃れをやっているのだ。首相と夫人が問題には関わっていないというのは確証の核となるところであり、その核を守るために、反証逃れをがんばっている。がんばるところをまちがえているという感がぬぐい切れない。

 反証逃れをやるというのは、自分たちに原因はない、という確証をもつことをあらわす。この確証の、とりわけ核となるものを、どうしても手放したくないので、そこを何としてでも守るといったことになる。

 政権与党は、自分たちに原因はないとして、確証をもつのだとしても、その確証はとりあえずのとっかかりにすぎない。その確証にたいして、うんそうだなとしてすべての有権者が納得するのであればまあよいわけだけど、そうではなくて、少なからぬ人たちが納得しかねるのであれば、それと向き合わないとならない。納得しかねるのは、反証することであり、確証にたいしての批判である。反証である、確証にたいしての批判から逃れようとするのであれば、それと向き合っていることにはならない。向き合うのではなく逃れてしまうのだと、納得しかねる人たちの賛同を得られないことになる。

 とりあえずの確証にすぎないものなのに、それを最終の結論のようにしてしまうと、じっさいのこととずれたり、漏れてしまうことがあったりしかねない。それはおかしいのではないかという批判にきちんとさらされて、それを経たあとでないと、最終の結論としてとるのはふさわしいものではない。すっきりとせず、もやもやが残る。

 首相や夫人が問題に関わってはいないという確証の核が、けっして反証(否定)されてはならない。そのように見なすのは、ふさわしい見かたであるとはいえそうにない。確証されるかもしれないし、反証されるかもしれない、といったふうにして見て行くことがいる。確証がけっして反証されてはならないという予断(先見)をできるだけとらないようにする。確証というただ一つの答えだけをとらないようにする。確証という前提だけをよしとすることで、その前提を隠してしまわない。答えや前提を単数にするのではなく、複数化するべきである。文脈(切り口)を一つだけにするのではなくて、複数のものを持ち替えられればさいわいだ。