ちがう入力(判断材料)があることにより、ちがう出力(結果)が出ていたのがある(確実でなさがある)

 公正な選挙が行なわれたのかどうか。それを見るさいに、当事者である有権者が、選挙の結果に影響する情報(要素)を、どれだけ知ることができるかどうかがある。選挙の結果は、一つの均衡点であり、それがどうなるのかは、判断材料によって左右される。

 選挙の結果に影響する情報(要素)が、きちんと有権者に知らされていずに、隠されてしまう。隠された情報が、あとになって明らかになったとすると、結果に影響するものなのだから、結果がちがっていたというふうに見なせる。

 もともと民主主義による選挙は、出た結果を絶対化することはできず、相対として見るのがいるものだとされる。数による量の大小のちがいにすぎないからである。それに加えて、選挙の結果に影響する負の情報が有権者から隠されてしまうことが少なくない。その隠される度合いが、すごく大きいこともあるだろうし、小さめなこともある。すごく大きいのであれば、公正さが疑われることになる。正統性が薄れることになり、冷たい義理となる。本音が噴出することになり、不満が出ることになるので、国家の運営(ガバナンス)が困難にならざるをえない。

 よほど公正に選挙が行なわれるのでないかぎりは、選挙の結果である均衡点は、そうとうにあやしいものだというふうに見なすことができる。そうとうにあやしいというのはちょっと言いすぎであることもあるかもしれないけど、出た結果である均衡点は、既成事実としての重みをもつものとして見なさないようにすることができる。軽く見ることができる。ちがった結果である均衡点が本当はふさわしいものなのかもしれないのがあるので、少なからぬずれがあるものだと言えそうだ。

 実証として出た事実としての結果がある。そこから誰しもが納得する客観の価値が必ずしも導き出されるとは見なしづらい。選挙の結果とは別に、支持率の数字なんかでも、それは実証によるものではあるけど、ずれがあるものでもある。少なからぬずれがあるものだとして見るのがふさわしい。実証として出た数字や結果は、顕在(けんざい)しているものだけど、それとは別に潜在しているものもある。顕在が潜在を産出する。潜在が顕在にとって代わる。そうしたことがおきないではない。