真実が知りたいのだと言うのが真実(本心)なのかどうかがいぶかしいと言わざるをえない(どのような意味あいにおいての真実を知りたいのだろうか)

 私が真実を知りたいと、本当に思います。安倍晋三首相の夫人である安倍昭恵氏は、報道陣に向かい、そのように述べている。昭恵氏はさらに、森友学園のいきさつについて、自分は何にも関わっていないんです、というふうに語っている。これらの発言については、そのままうのみにはしづらい。まったくの嘘でたらめと決めつけるは避けるとしても、仮説の域を出るものではないというのがある。

 昭恵夫人は、私が真実を知りたいと本当に思うというふうに言っているわけだけど、もしそうであるのなら、呪われた部分に向き合い、それととり組むことがいりそうだ。そうしたのを避けてしまい、非合理の部分と向き合ってとり組むことがないのだとすると、真実を明らかにすることはできづらい。真実が明らかにされないままになっているのは、合理の回路の中にとどまっているのをあらわす。

 合理の回路にとどまるのではなく、そこから出ることにより、非合理と向き合ってとり組むことになる。そのようにすることは自分(と首相)にとっては損になったり不利になったりすることになるのは明らかである。得になった利益になったりするようなうまみはきわめて少ない。なので、動機づけがはたらくものではない。損得抜きで、ただ真実を少しでも明らかにするように努めるのであれば、それは合理の計算としては割りに合わないことではある。真実は闇の中となるほうが合理の計算としては割りに合う。割りには合うだろうけど、公益に関わることがらについての真実を少しでも明らかにしようとするのを怠ることになり、有権者にたいして一定の義務を果たすのを拒むことになる。

 昭恵夫人が言っていることが、まったくの嘘でたらめであると決めつけてしまうのは早まった見かたかもしれない。しかしながら、夫人の言っていることをそのまま受けとめるわけにも行きづらい。立場としては夫人は公人というのがあり、まったくの純然たる私人とはいえないのがある。そこらへんの線引きがきちんととられていないようなのがもめごとを引きおこしてしまった原因の一端としてありそうだ。

 当事者の一方である森友学園の元経営者である籠池夫妻は、証拠隠ぺいのおそれがあるとして不遇にも拘置所に勾留されつづけている。これが正当な対応なのかかというと、そうとは言い切れず、不当なものなのではないかとも言われている。公正世界仮説(just world hypothesis)をとるのでもないかぎり、不当なものなのではないかとの見かたを完全に捨て去ることはできづらい。

 籠池氏が国家にたいして悪い企みをはたらいたこともあるのかもしれないが、それはそれとして、籠池氏はいちおう私人であるのがあり、かたや夫人は公人の色合いが強い。どちらが強者でどちらが弱者かといえば、公人を弱者とするわけには行かないのがある。報道機関にしつように責められることにより、公人が厳しい立場におかれるのがあるという事情もないわけではないだろう。そうした事情があるからといって、公人が弱者の側にあるのだとは言いがたい。権力に近い側である公人が言うことを、そのままうのみにしてしまうのではなく、表向きで言っていることの裏をさぐることが、まちがった判断を下さないためにはいるものだろう。