僕は君たちに武器を配りたい。そうした文句において、武器とはいったい何なのだろうか。ふつうでは、厳しい世の中の現状があって、その中で何とかして生き残ってゆくような手だてが当てはまる。しかしそうではなくて、武器というのは、権利であるべきなのではないかという気がする。権利が配られるべきなのではないか、ということだ。正確には、すでに配られていることが知られるのであればよい。新しく配られるのではない。
権利ばかりを主張するのはけしからん、という意見もあるかもしれない。たしかにそれにも一理あることはいなめない。そうしたのはあるが、義務にたいする権利ということであると、等価のあり方による。これは市場原理でもあり、じっさいには不平等となる。市場は格差を肯定する。そうしたのとはちがうあり方として、贈与のあり方があるとのぞましい。
贈与として、すでに武器が配られている。そのようなものとして権利があると見なすことができそうだ。それがきちんと活用できるような世の中であればのぞましいけど、現実にそうなっているかといえばきわめて心もとない。そうした一面がある。(本人の責任によらない)無知と貧困によって不当に苦しんでいる人は少なくない。
人間の欲望は際限がないものではあるが、それは市場の中で、やりようによっては満たされるようにすることができるものである。満たせないようなものであれば、あきらめるのも手である。そうしたのとは別に、必要でかつ自然な欲求については、みなが当然のこととして満たせるようになればよい。そのようであれば、みなが安心して暮らせるようになる。人間の安全保障だ。国家のではない。
意欲とはあくまでも自分で持つようにするものであり、それがないからといって周りのせいにするのはよくない。優れた人は、環境にたいして不満や文句を言わないものである。そうしたことが言われるのはたしかだ。そうしたことがあるのは認めつつも、そこには少なからず生存者バイアスがはたらいている。意欲とは心の内のことであり、心とは関係現象である。個人内で完結しているものではない。周りの状況にきわめて大きく左右されるものである。
ものごとの優先順位というのは色々とあるのだろうけど、必要で自然な欲求についてみなが無理なく満たせるようにするというのは、そうとうに高い優先度のことなのではないか。それがないがしろになってしまっているような気がするのである。社会の中であたかも価値の高いことであるかのようにして、とくに必要でも自然でもない目標が(全体のものであるかのごとくに)追求されてしまっているきらいがある。そうしたことは、そんなに優先度の高いことなのかというのが疑問である。
経済においては、全体の総生産の量を大きくすることが追い求められている。こうして量を追い求めると、質がないがしろになる。たとえば原子力発電の国内の技術を他国へ輸出することなどだ。それで輸出先の他国で事故があれば、その責任は日本国民にふりかかってくる。責任なしではすまされない。
全体の総量が増えるのはよいことであり、それにけちを付けるのはまちがっている、という意見もある。たしかにそうしたことは言えるわけだけど、いくら総量が増えたところで、どんぶり勘定であるのだと全体がまんべんなくうるおわない。豊かさとは、全体の総量が増えることでは必ずしもない。企業は内部留保なんかと言われるように内部に貯めこんでしまうのがある。
お金の全体の総量が増えるのもたしかに大事なことではあるかもしれないが、それとは別に、社会の質を改めるのがあったらよさそうだ。ちょっと偉そうなことを言ってしまうのはあるけど、たとえば労働法なんかはきちんと守られているのだろうか。そうした決まりがきちんと守られていないのであれば、そうとうに深刻な問題だ。いったい何のための決まりなのだろうかというのがある。経済権力による嘘がまかり通り、横行してしまっているのだ。
優先度において、今かかげられているものとは別に、他にもっと高いことがあるような気がしてならない。たとえば、原子力発電から脱するのを議論するのも足りていないし、巨大な自然災害への対策も十分になされていない。十分に意識もされていない。