誤報だとする理由は何なのだろうか(寛容に見るとすれば、誤報ではないという見かたができる)

 国会での野党の質問時間を削減させる。それで与党の質問時間を増やす。そのように指示したとの報道は、報道機関による誤報である。自由民主党安倍晋三首相はそのように述べていた。国会における野党の質問の持ち時間を減らすように首相が指示したとされるのは、誤報であるとの認識を持っているとしている。

 はたして誤報なのかどうかということで見てゆくと、大手の報道機関が一斉に報じていたものであるから、各社が一斉に誤報したことになる。そうして一斉に誤報をするということもありえないではないかもしれないが、ちょっと考えづらい。それに加えて、じっさいに国会での野党の質問時間が少し削減され、与党の質問時間が少し増えている。与野党で協議が行なわれたことで、このような結果となったようだ。

 なぜ首相は、報道機関が一斉に誤報をしたとの認識をもっているのだろう。この首相による見解を疑ってみることができる。首相の弁は、自分の素朴な感情や気持ちを口にしたものだと受けとることができそうだ。その素朴にわいた感情や気持ちによる弁を出力とできるとすると、その前には思考回路があり、また入力があるとできる。

 出力されたものの奥に思考回路のはたらきがある。この思考回路において、自我の防衛機制認知的不協和の解消がはたらいたことによって、誤報であるとの認識の弁が出力されたのではないか。現実にはちょっと考えづらいことではあるが、大手の報道機関が一斉に誤報をしたという認識をもつのは、自我の防衛機制のはたらきのなせるわざであるだろう。ほんとうに一斉に誤報だったおそれもゼロではないのはあるわけだけど(そうだとすれば首相の認識は正しいことになる)。