二次被害ができるだけおきないようにすることへの配慮

 被害者が、被害を受けたことを公表する。そのうったえが、そのまま受けとられず、被害を騙(かた)っているだけなのではないかと疑われる。そうなってしまうと、二次被害が生まれてしまう。その二次被害を防ぐことがいりそうだ。

 二次被害が生まれてしまうのは、ひとつには、被害者が被害を騙っているだけにすぎないと見なすところからきている。そのように見てしまうと、被害者はじつは加害をたくらんでいるみたいにとらえることになる。しかし、被害者が加害をたくらんでいるのかどうかは、じっさいには定かではない。

 被害者が、被害を受けたことを公表するのには、かなりの勇気がいる(被害の内容によっては)。その勇気をたたえることがあってもよい。公表することで、何かよからぬたくらみをたくらんでいるのではないか、何ていうふうに疑られる危険性もある。その危険性もあらかじめわかったうえで、それでもあえて公表に踏みきったこともありえる。いわれのない受けとりかたをされるのも覚悟のうえなのかもしれない。そうだとすると、汚名を引きうけることにもなり、そうとうの決断である。

 あちらを立てればこちらが立たずといったようになるところがある。そこがむずかしい点だろう。二次被害を防ぐという点に立てば、被害者がじつはひそかに加害をしでかそうとしているとする見かたをとらないようにできればよい。こう見てしまうと、被害者を有罪としてとらえてしまう。これはえん罪であるおそれがある。

 性の営みなんかでは、お互いに合意してそれがなされることがいる。そうしたさいに、人間の心の移ろいみたいなのが関わってくる。その点に注意をうながしているのが、イギリスの警察によってなされていて、動画がつくられていた。そこでは、性の営みが、紅茶を飲むことになぞらえられている。

 相手が紅茶を飲みたいと言っていても、直前になってその意をひるがえすかもしれない。そこに注意することがいる。飲みたくもないのにむりやりに飲ませてはならない。また、意識の状態がおぼつかないときにも飲ませてはならないそうだ。そうしたように、細心の注意を払うことがいる。手つづきに十分に気をつけて、そこに不備がおきないようにするのがよいのだろう。意思疎通のずれである渋滞(誤解)がとりわけおきやすいところがある。