寛容さをそなえた、もう一つの幻想的自我

 なぜ、上の者に直接に反対の声をあげに行かなかったのか。その職にじっさいに就いているときに、そのようにするべきだった。これは、上の者があたかも寛容さを備えているように装うような意見であるといえる。しかしじっさいには、そうした寛容さをもって下の者からの反対の声を聞き入れることなどありえそうにない。むしろ非寛容であるのが普通だろう。ごくごく例外的には寛容なこともありえるかもしれないが。

 下の者が直接に反対の声を上の者に投げかける。それをすんなりと聞き入れるというのであれば、それは大したものである。嫌がらせや、いやらしい報復を与えることもない。そうした寛容さをもっていると上の者があとから言ったとしても、あくまでもあとから言ったことにすぎない。したがってそれは仮定法の話である。仮定法を持ち出すのであれば、何とでも言いようがあることはたしかだ。あんなこともできたし、こんなこともできたのだ、と言えてしまう。

 上の者へ直接に文句の声を言いに行くのにさいして、下の者はふらっと気軽に行くわけにはいかない。そこにはあるていど以上の覚悟がいる。そして、あらかじめどうなるかという想定をすることになる。上の者が開かれた思考をとっているというのは、理想としてはありえるが、現実にはありえづらい。思考が閉じていて排他的であるほうが現実的だ。そうであるのなら、下の者が反対の声を上げたとしても、それがはねのけられてしまうことになる。言ったとしても無駄になる。徒労に終わってしまう。

 上の者は下の者をいちいち見ていないかもしれないが、下の者は上の者(とその周辺)のことをよく見ている。そうしたことがありえる。だから、上の者(とその周辺)がどのように動き、どのような行動に打って出るのかというのを、下の者は感じとることができやすいところがある。

 かりに、上の者にたいして、下の者が直接に反対の声を投げかけに行ったのだとしても、効力があるかどうかの点も無視できない。そこに効力がないのであれば、反対の声を直接に投げかけに行っても意味がない。何か行動をおこすさいには、なるべくであれば少しでも効力があるような実感がもてる手を打ちたいものだ。何の波紋もよびおこさないようであれば手ごたえがない。あるていどは、他の人を巻きこめるようなことができたほうがよいだろう。