選ぶさいの基準が主観的なものであると、(極端には)権力の濫用だと受けとられかねない

 岩盤となっている規制をぶち壊す。そうした意気ごみはいさましい。しかしそれは、あくまでも表向きのかけ声にすぎないとも見ることができる。規制を打ち壊すさいに、たまたま自分とじっこんである間がらの、友だちである人をもり立てることになってしまった。これは、確率として見ると、そんな都合のよいことがはたしておこるものだろうかというのがいぶかしい。

 長いつき合いの友だちがいても別に変なことはない。ただ、そのお互いに浅くはない間がらがあることは事実であるのだから、そこは否定できない点だろう。その事実をふまえるのであれば、友だちであるから優先してもり立てたのだと見られかねない危険さは、あらかじめ予想できるものだといえる。ものすごくうかつでうっかりしているのでないかぎりは、前もって危険さを想定することはそうむずかしくはない。

 友だちである人がいることが事実であるとして、その人をとくに優先してもり立てたいのだとしよう。かりにそうであるのだとしても、これこれこういうふうな客観的な理由によってというふうに、誰の目から見ても選ばれた過程に不審な点がないようにしないとならない。これは最低限の必要条件である。はじめから結果ありきの選びかただったのではないか、とあとになって追求されないような、きちんと説得できる材料を用意しておく。もしそれをしないのであれば、あまりにも不用心だ。

 報道機関のもっている調査力からすると、首相との長年のあいだの友だち同士である関係というのは、発覚するおそれが決して低くはない。であるから、そこは想定できるものとして、友だちを優先して盛り立てようとするからこそ、そこにはふつうのときより以上の、とりわけ客観的な選びかたの過程がとられていなければならなかった。友だちだから甘くするのではなく、逆にあえて厳しくするくらいがのぞましい。そうした選びかたの過程がとられることによって、友だちだから優先して選んだわけではないのですよ、との説明がはじめてなりたつ。

 規制を何とかして突破しようとして、奮闘してやっていたところに、たまたま友だちのところが選ばれた、というのでは、いまいち説得力に欠けることはたしかだ。あとになって、そんな都合のよいことがあるのか、と疑われるのを、あらかじめ見こんでいなかったのだとしたら、ちょっとどうかしていると言わざるをえない。もし見こんでいたとしても、力づくで何とかなるだろうとしていたのだろうか。もし力づくで何とかなるとしていたのだとすれば、そこには配慮が欠けているのがあるし、労力を省いてしまっていると言えるだろう。もっと労力を使って、客観性を保たなければならなかった。何とかなるだろう、でじっさいほんとうに何とかなってしまっている現状もあるにはあるが。