辛さがききすぎることへの心配はぬぐいきれない

 ピリ辛党であることを宣言する。先行きが見えづらい今の世の中にあっては、甘口ではとうていこの国を守れはしない。具体的には、テロがおきてしまう前に、ピリ辛としてとりしまってしまう。そこは甘く見のがさない。こうした内容を記したパンフレットが、先ごろ与党である自由民主党によって配られたそうなのである。正直いって、なんとも直接なことを言うものだなあという気がした。

 このピリ辛党の宣言は、カレーライスにかけられたものである。パンフレットが配られた会場では自民党にゆかりのあるカレーライスが無料で配られたそうだ。このカレーライスについてはちょっと試しに口にしてみたいところである。どうしてもというわけではないけど。

 カレーライスは置いておくとして、若干の驚きを禁じえないのは、テロをあらかじめとりしまってしまうという、ピリ辛党の宣言の内容だ。これはちょっといかがなものだろう。そこには、鎮圧や弾圧をしようとするもくろみが見てとれはしないか。そのように言ってしまうと、言い過ぎになるかもしれないが、しかし必ずしも的はずれではないだろう。ピリ辛が激辛にならない保証はない。

 少しでもテロがおきないようにするのだから、国民にとってもよいことだろう。これは、父権主義的(パターナリスティック)な発想である。あまりのぞましいものではない。そのうえ、一見すると国民のためを思ってということだが、じっさいにはそうではなく、国家にとって都合のよいものになってしまっている。なぜなら、国民を信用するのではなく、ほぼすべての国民をテロを実行するおそれのある者として疑うことになるからだ。

 テロというのは、それが国内でおきることをゼロにすることは原理的にできないものだろう。ある程度おきてしまうのはしかたがない。しかたがないと言ってしまうとちょっと不適当だが、これは国際社会の複雑化の流れを受けているものだから、それを完ぺきにせき止めることはできそうにない。頼もしいことを言うのはよいけど、それで国際社会からの影響が無効化されるわけではないのもたしかである。この時代はそういう時代であるとして、ある程度確率的にあきらめるしかない部分もありそうだ。なるべく物騒なことがおきないほうがのぞましいわけだけど。

 テロについての対策うんぬんもよいのだけど、それをするのであれば、予防主義的な見地に立ったほうがよい。そのように言うことができるのではないか。悪いものを未然にとりしまるというのではなく、老若男女のみんなが生きてゆきやすいようにする。とりわけ社会のなかの弱者にたくさんの手が差し伸べられるようになればよい。生きかたの幅を不当にせばめられている人に、(経済面をふくめて)もっとそれを広げられるようにする。

 みんなが少しでも生きてゆきやすくするための手助けという点でいえば、どうもそれがピリ辛党(もっといえば激辛かも)になってしまっているような気がしてならない。渋ちんというふうである。そうではなく、もっとふところを広く開いて、甘口であったほうがよいのではないだろうか。アメがなくてムチだけ振るわれてもちょっとかなわない。そこはできれば勘弁してほしいところである。そんなことで、もしかりにピリ辛党であるのを宣言するにしても、方向を国民へ向けるだけではなく、たまには自分にも向けたらよいのではないか。あまり他人のことは言えないわけだけど。