計りがたい甚大さ

 あくまでも仮定の話として、大きな災害が首都圏の近くでおきたとする。そうであれば、それ以外のところでおきるのと比べて、被害がとても大きくなってしまう。これについては、必ずしもまちがったことを言っているわけではないかもしれない。たしかに、即物的に言えば、そうしたことは言えそうだ。しかし、言いあらわし方で角が立つというのがある。口言葉というのは、とりわけ難しいところがあるだろうし、まわりからの干渉がはたらく。

 国家主義に立つのであれば、国家の全体として、おきる被害の大きさができるだけ小さいほうがのぞましい。そうしたことは言えるわけだけど、国家主義が一番えらいわけではなく、正しいわけでもない。階級秩序(ヒエラルキー)みたいにして見てしまうと、主と従みたいにとらえてしまいかねないところがあやうい点である。重要度という点で見て、国家がその他(たとえば地方など)よりも抜きん出て優遇されるというのはちょっと賛同できない発想だ。

 全体の被害の額や数というのもたしかに無視できない要素ではあるが、その大小だけがすべてではない。大小だけが大事だと見なしてしまうと、生産中心主義におちいる。これは経済の量の論理である。しかし、そこからとり落とされてしまう、質の問題もある。たった一人の悲劇や不幸だったとしても、軽んじられてよいものではないだろう。偽善に響くかもしれないが、質という点でふまえたら、量のいかんによってできごとを相対化することはできない。

 国家のレベルで被害を少なくしたいのであれば、あらかじめ首都機能を分散させておくのがよいのではないか。首都機能が一部分に過度に集中していると、効率がよいことはあるが、そのいっぽうでいざというときにぜい弱さをもつことになってしまう。そこは、首都に過度にものごとが蓄積されてしまうのを、何とかして改めることがいるだろう。そもそもはじめからやる気がないのかもしれないが、そのままで放っておくと、都市の過剰さがもたらす危険さを解消できない。

 失言とはいっても、発言の中の一部を意図的に切り取るようにしてあげつらうのは、場合によっては、ちょっとちがうところがあるかもしれない。それを考慮に入れることはいるだろうけど、それとは別に、心にも思ってもいないことは、なかなか口から言葉としては出てきづらいのもいなめない。ついうっかりというのはあるわけだけど、受けとるほうとしては、どうしても、心でそう思っているから、問題のあることを言うのだろう、と見てしまう面があるのもたしかである。

 ぽろっとこぼれた細部みたいなところに、本質が宿ってしまうといった面もあるのではないか。あまりに強引な一部の切り取りは報道する方にも問題があるにしても、いっぽうで、あまり気にとめづらい細部に、意外な無意識があらわれ出てしまうといううらみもなくはない。そこは、その発言の中で何を言いたかったのかという中心の動機と照らし合わせて、その動機にもまずいところがあるのであれば、たんなる重箱の隅つつきであるとは言えそうにない。