像の姿勢の意味

 韓国の従軍慰安婦像(少女像)は、座った姿勢をとっている。なぜこうした姿勢がとられているのだろうか。その点に着目することができる。というのも、ふつう西洋のありかたにおいては、像というのは立った姿勢が一般的であると言われているためである。英雄の像なんかでは、立った姿勢でないとあまり様にはなりそうにない。像というのは、あるべき様を形にするものだから、いちばん価値があるとされる姿をとるのがふさわしいものである。

 慰安婦像が座った姿勢をとっているのは、そこに東洋的な心性があらわれていると見ることもできるかもしれない。西洋のように、明と暗をはっきりと対照的に分けてしまうのではない。戦前や戦時中は、韓国は日本の植民地になっていたこともあり、従属させられていた。その関係性によるありようも作用している。

 慰安婦像自体には、必ずしも対立の意図は含まれてはいないとも見られそうだ。といっても、これはあくまでも個人の勝手な解釈にすぎないのはある。そうした面はあるが、像が座った姿勢をとっているのは、平和や和解への意味というのが含まれていると見なせなくはない。もし敵対して戦おうとするのであれば、勇ましく胸を張り、立った姿勢をとるのがふさわしいが、そうしたふうではない。

 問題なのは、慰安婦像がどういった姿勢をとっているのかではなく、どういうあつかわれ方をされているのかにある。そういうふうに言うこともできるだろう。じっさい、像は座った姿勢をとってはいても、そのあつかわれ方としては、立った姿勢である臨戦態勢として受けとられてしまっている。これは、双方への誤解も一部には含まれているところがある。

 じっさいには像は座った姿勢をとっている。しかし、現実にはそれが無理にでも立たせられてしまっている。そのような面がありそうだ。なぜ立たせられてしまっているのかというと、そこに道徳志向性がはたらいているせいもあるだろう。道徳として、理が付与されている。きつく過去を問いただしている。しかしそれだけではなく、うらみもありつつの日本への多少のあこがれである恨(はん)もあるとすると、そこには複雑な気持ちがこめられているわけだ。

 座った姿勢の像だけではなく、もしかすると立ったものもあるかもしれないから、こういうものだと決めつけてはいけないだろう。また、像の姿勢に意味を見いだすのは、瑣末なことであるおそれもなくはないのもたしかである。やはり、形象(見かけ)がどうであれ、それとは別に、立たせられてしまっている点が深刻だ。これによって物象化がおき、おたがいにぶつかり合ってしまう。