制度を保つための理由

 いまある制度を保守するのは、方便もかかわってきてしまうのかな。いまの制度を守ったほうが、社会全体が安定すると言うこともできる。しかし、そもそも社会全体が安定するかどうかは、民衆が納得して満足しているかどうかで決まってくるところもある。

 制度を守るための、いくつかの方便を用いることはできるが、そこには穴が開いてしまっていそうだ。けっきょく、いま通用している制度を守るとはいっても、何のためにだとか、誰のために、といったことが頭をもたげてしまう。

 社会の安定のためとはいえ、社会の構成単位は国民なわけだから、制度の維持の根拠は、国民の意思にあるともいえる。そうした点を脇においておいて、社会の安定ありきだとか、いまある制度を守ることありきという姿勢をとると、循環論法みたいになってしまいかねない。

 あくまでも方便の一つではありそうだけど、進化をもち出すのはおもしろいなと感じる。いまある制度を守る理由として、ダーウィンが説いたとされる進化論をふまえる。生存競争と自然淘汰と適者生存によって、結果として生き残ったのがいまある制度である。それゆえに守る価値がある。これは、万人を納得させられはしないだろうが、それなりの説得力がなくはない。

 功利主義では、洗練された功利主義というのがあるそうなんだけど、これも方便の一つとしてもち出すことができそうだ。ふつうの功利主義だと、慣習とか伝統とかをいっさい抜きにして、たんなる功利計算の形をとる。しかし洗練されているのだと、そこに慣習や伝統の観点を組み入れるのである。こうすることで、穏当な帰結を導くことができるわけだ。

 いまある制度をどのように見るかというのでは、そこに先入見がはたらいてしまうのはいなめない。そうした先入見や整合性をふまえた解釈の一つとして、陰謀理論をもち出せる。そのような意志をもつのは個人の自由ではある。しかし、否定が価値をもつことによって、ルサンチマンにおちいってしまいかねない。そうなってしまうと、極端に傾いてしまうことはたしかだろう。

 ルサンチマンのようになるのはよくないが、かといって今あるありようを一方的に押しつけてしまうと、抑圧的にはたらく。かくあるありようを、そうであるべしとすることで、自然主義による誤びゅうをまねく。

 例としてふさわしいかどうかはわからないが、東京都の(魚を卸す場である)豊洲市場への移転問題がある。この件では、豊洲は水質の汚染の検査結果が出るなどして、移転が延期されている。しかし、あくまでも程度問題としてみれば、豊洲はベストではないにせよ、移転を中止するほどではない。一部の識者はそう見ている。

 豊洲を単体で見ると非があげられる。しかし、築地と比較すれば、築地にも衛生面での問題があるわけだ。そこはあまり表沙汰にはされていない。築地のありのままのありようを出発点とすれば、豊洲へ移転することに合理性を見いだすことも可能である。ただここは、心象のかね合いもあるし、賛否が分かれてしまうところではあるだろう。

 経営(ガバーナンス)の観点から見ると、理想的な制度を見つけるのにどれだけの費用や労力がかかるのかを無視できない。なので、現実的な落としどころで妥協することがいる。いま通用している制度(または計画)を守ってゆくことが合理的になる。ただ、話はそこで終わりそうにはない。

 そもそも、合理か不合理かという区別自体が、あるいは不合理なのかもしれないのだ。行動経済学では、人間が不合理な行動をとってしまうことが少なくないことを説いているという。また、プロメテウス行動として、予測のつかないようなだしぬけの行動をとることもありえる。これは子どもによく見られる。

 人間にとって、社会の制度に馴染むことが幸せにつながるとはかぎらない。また、中国の道教とか、無政府主義なんかの、できるだけ人為によらないような、自然なありかたをよしとすることもできる。しかし、そこまで行ってしまうと、ちょっと行きすぎな感もある。へたをすると、万人が争い合う、自然状態のようになりかねない。なので、みんなが合意しやすい最小の足場をふまえることがいる。(社会)契約論的な発想に立ち、混沌へ走ってしまうのに抑えをきかせることもいるのかな。

 制度を形式として見ると、それができあがったとたんに形骸化がはじまってゆく。はじめにあった鮮度が落ちていってしまう。そうした点をあらかじめ見こして、あえて定期的に打ち壊してしまい、ただちにつくり直すなんていう工夫も日本の神道ではあるという。建て物ではそうしたことができるけど、社会の仕組みにおいてはなかなかできづらそうだ。

 いまあるありように安住するだけが人間のよしとするところではない。何か現状とは異なるような、理想となるようなものがあることで、生きていく支えとなる面がある。理想郷が描かれるわけである。ただ、歴史的に見れば、こうした理想を実現する段になると、逆理想郷(ディストピア)になってしまう。悲惨なふうになった例のほうがむしろ多い。その点に注意することがいりそうだ。

 予備校講師の林修氏の決まり文句のように、いつやるか、今でしょ、という性急さもあってよい。しかし、ものごとが変わるのには、それにふさわしい時機(タイミング)がある。機が熟すまで待つのも手だろう。あと、精神分析学では、人間は欲望を抑圧する動物だといわれている。だから、少なくとも、現状を変えたいという欲をなんとか抑圧できているあいだは、制度が保たれることになる。