態度の悪さと道徳のかかわり

 なぜきついことを言って、炎上してしまったのか。元テレビ局アナウンサーの長谷川豊氏は、朝日新聞社のインタビューにおいて、当時のできごとをふり返っていた。仕事は多忙をきわめ、自分でも正常な心をなかば失ってしまっていたらしい。今ではそのときのことをかなり冷静にかえりみることができているようだった。

 人工透析の方について、およそ 3つに分類をしていた。まず先天的な原因の人はまったく問題がない。つぎに、自暴自棄(不摂生)な生き方になって病気になってしまったが、それでもあとでちゃんと反省している人については、守ってあげるべきだとしている。そうした人たちを長谷川氏はグレーと言っているのだけど、これはちょっと変だなという気がする。グレーというのはおかしくて、正しくはホワイトではないかな。グレーだと、守るか守らないかが未確定になってしまう。

 そもそも、いったいどうやって内面において反省しているのかどうかを見分けるのだろうか。外から見分けるのはむずかしそうだ。あと、グレーと言ったのは、ホワイトではないということを言わんがためのものだったのかもしれないとも察することができる。生活態度でグレーだとかと評するのは、標準医療の均質的な身体観を当てはめていそうだ。しかし、人間の体はけっこう個人差があって、必ずしも公平とはいいがたい。どの病気がどのタイミングで発現するのかも一様ではない。

 かりに節制することが善で、不摂生を悪とすることができる。こうした見かたをとってしまうと、強い主体を前提としてしまう。近代においての、企て(プロジェクト)としての生のありかたになる。その強いられた企てからこぼれ落ちた人をすべからく弱いと見なすのは、必ずしも正当とは言い切れない。くわえて、人によって選好が異なるのも無視できない。選好が形づくられてしまうのは、必ずしも当人の責任とばかりは言い切れない面もある。偶然や環境の要因も見のがせない。

 人工透析を受けているなかで、医者にたいして態度が横柄な患者の人がいるのだということが、取材をするなかでわかったのだという。そうした人のことを、モンスター・ペイシェントなんていうふうにいうらしい。こうした問題のあるふるまいをしてしまう患者の人にたいして、長谷川氏は憤りのようなものを感じたのだろう。

 あらためて見ると、モンスター・ペイシェントといわれるような人たちは、道徳的に問題があるということになるのだろうか。そうした人は、いたとしてもたぶんごく少数なのだろうという気がする。くわえて、態度が悪い患者の人について、道徳的にけしからんとするのはいっけん正当のような気もするんだけど、むしろそういうところをこそ医療で何とかできはしないのかな。

 悪い態度をとってしまうということは、精神的に病いを抱えている可能性があるのではないか。とすれば、その精神の病いのところを、精神科医にかかることによって、うまく治療することもできそうである。なぜ他に悪い態度をとってしまうのかというその原因がわかれば、感情も消えるかもしれない。

 難治性の病いを抱えていれば、生きることにたいして自暴自棄になってしまっても不思議ではない。身近にいる医者や看護師の人にとってはたまったものではないだろうが、近くにいる人についはけ口として当たってしまう心情もまたわからないことではない。決してよいことではないが。キラー・ストレスのように、ストレッサーを抱えているのだと見なせる。というわけで、精神医療の文脈においての解釈も成り立ちそうだと感じた。

 精神医療については素人ではあるんだけど、たとえば愛なんていうのを持ち出すこともできると思うのだ。生育過程において、親からの十分な愛を与えられなかったから、知らずうちに自分を駄目にして、病気になるような生き方をするようになってしまう。そうしたばあい、当人にすべての責任があるといえるのだろうか。もっとも、愛という抽象的なものを持ち出してしまうと、客観的に検証することはできないから、どうとでも言えてしまう面は否定できないが。