答えになっていない答えを返す

 質問に対する答えになっていない。ぜんぜん質問と関係のない答えを返す。いつもではないが、そうした傾向が自由民主党安倍晋三首相には見うけられるようだ。ほんらい、質問されたことにそぐうことを答えるのが大事であり、そうしないのであれば質問(者)を軽んじていると言わざるをえない。よくいえば鈍感力のようなものだろうか。

 そうした点について、安倍首相のことを批難したいような気持ちになってくる。しかしあらためて見ると、質問と答えによる問答(インタビュー)は難しいものでもありそうだなという気がする。いったいにそうしたやりとりにおいては、質問者の側が、答える側にたいしてあるていどの好意をもっているのがふさわしい。逆に敵意をもっているとなかなかうまくやりとりが進まなくなる。

 好意をもっているのがふさわしいとはいっても、当たりさわりのない質問ばかりを投げかけるようでは意味があまりない。たとえ気が進まなくても、ときには厳しく鋭いことも投げかけるようであってほしい。野球には詳しくはないのだけど、投手が甘い外角の球ばかりではなく、内角のぎりぎりのところを攻められればたいしたものだ。打者が強そうだと、つい腰が引けて丸めこまれてしまいがちだし、手もとが狂うとデッドボールを食らわせてひと悶着おきかねない。

 質問にたいして、答える側の人のあらかじめもっている個性の問題もある。誠実に受け答えようとする人も多くいるだろうが、そうではなく不誠実にはぐらかすような人もいる。不誠実にはぐらかす人が悪いのかどうかというと、一概にそうとは言い切れない面もある。というのも、それがその人のもつ個性だとすると、どうにもしようがないところがあるからである。

 西洋では対称性(シンメトリー)が重んじられているという。それとは別に、非対称性をもつものもある。安倍首相は美しい国の日本として持論を説いているけど、その美しさとは、西洋的な対称性ではなく、東洋による非対称性のものなのかもしれない。

 茶道の茶室とかお寺の庭なんかでは、あえて非対称なつくりにすることで独特の美を生みだす。それと似たように、質問にたいして直接に関係のない答えを返すのも、非対称なところがありそうだ。対称性の破れのようである。いつもいつもそうしているわけではないだろうから、時に応じてうまく使い分けているのだろう。

 あくまで虚構の話ではあるけど、小説の会話では、いちばん重要なことは登場人物には話させないようにするのがよいそうだ。それが会話のこつなのだという。すぐれたドラマー(打楽器奏者)は、いちばん大切な音は叩かない、などともいうそうだ。作家の村上春樹氏が言っていた。

 現実が虚構のようであっては困るが、あえて肝となるようなことは言わないようにしているのだろうか。もしそれを言ってしまうと、話が終わってしまったり、相手のペースになってしまうので、それを避けている。そうすることで、タカ派的な動態性を生み出しているわけである。ただそれがよいことかそうでないのかはよく分からないが。

 あらためて見ると、答えになっていない答えとはいったい何なのだろう。答えになっていないのに、答えになっているのだと、矛盾していることにならないか。答えの範囲を拡大してしまうのだから、たぶん修辞法(レトリック)になっている。

 質問にきちんと答えなければならないとしても、それを無視することもできる。そのさい、沈黙するのだとあまりに露骨すぎるのはたしかである。いい手ではない。別な手として、うまく話を逸らすために、答えにはなっていないが、代わりになるようなことを話してしまう。

 聞くところによると、精神科医には大別して 2種類のやり方があるという。ひとつは、患者の訴えを親身に聞いて、患者の身になって悩みや苦しみをとらえようとする。もうひとつは、一休さんのとんちのように、機知をきかせるようにして宙づりにしようとする。人間には意味を追い求めるきらいがあるから、それに従うか、それとも少し無意味化しようとするのかのちがいとなりそうだ。

 禅問答なんかだと、頭をひねらせるのがきっかけで悟りを開けることもなくはない。しかしそういう有益な例ばかりではない。相手がどんな球を投げてきても、それにいっさい影響されず、たいてい同じ球を返す人がいる。はじめから自分のなかで答えが決まっているのである。

 自分のなかですでに答えが決まっているのだから、そういう人の答え(考え)を変えさせようとしても無駄だろう。だれしも多かれ少なかれ、(よほど柔軟な人でないかぎりは)何らかの固定観念をもっているものではある。そうした確証はときに認知の歪み(バイアス)を生む。歪みを直すには、他者からの忠告なんかに素直に耳を傾けられればよいのだけど、なかなか抵抗感があってできづらい。主義もかかわってくる。

 そもそも、なにか決まった答えをもっていて、それを述べるのが大事なのではないのかもしれない。そうではなく、質問をすることのほうがいるのではないか。物理学者のジョン・ホイーラーはこのように述べているそうだ。自分たちの発する問いのいかんによって、われわれは世界を形づくっている。とすると、質問に答えない(答えようとしない)のは、その質問が形づくる世界観には関わりませんよと言っているのに等しいのかな。