生死のアイロニー

 口から多量の鮮血をはく。修善寺の大患において、文豪の夏目漱石は 30分くらいの仮死状態におかれるほど、深刻な経験をしたようである。医師などからの懸命の助力のせいもあってか、一命をとりとめることができた。

 命が助かった漱石のまわりでは、病を患った(同じ病院内の)患者がいく人も亡くなっていた。それをあとで知ることになる。癌などの致死的な病にかかっていた人たちである。自分は命が助かったが、そうではなくて亡くなってしまう人もいるわけであり、そのありようについて、頭の中にアイロニーの一語が生じたと語っている。

 100年くらい前の当時は、まだ今ほど医療が発達していなかったせいもあるだろうから、助からない命も多かったのかもしれない。漱石胃潰瘍のようだけど、肺結核なんかは死の病として恐れられていたようである。そんななかで、とくに病院においては、死がとりわけ凝縮された場(トポス)であり、逆に生の偶然性のようなものを感じさせもするかのようだ。

 とくに生きてゆこうと思ってふだん生きているわけでは必ずしもない。ばち当たりではあるかもしれないが、もう生きてゆきたくないとたとえ思っていたとしても、(自殺などしないかぎりは)それでも生きてゆくことはできてしまう。これも一つのアイロニーなのではないかという気がする。

 生きてゆきたくないと感じるのは悪いことなのか。そのうえで、そう感じつつも生きてゆけてしまうこともまた悪いことなのかな。そこのところはいまいちはっきりとはしない。なにも、社会の制度としての安楽死をとくに推奨しようという魂胆があるわけではない。

 安楽死といえば、このあいだ、掲示板サイトを見ていたら、それについての書き込みがあった。社会のなかでの福祉や医療の予算がひっ迫してゆくなかで、高齢者などの人たちへの安楽死を認めるのはどうかとする意見が一部である。しかし、もし安楽死をじっさいに世の中で導入したとすると、そう都合よく福祉や医療の予算が削れるのかといえば、その保証はあるとはいいがたい。

 また、たいてい安楽死に応じる人といえば、気のいい人たちばかりだろう。なので、あとの世の中に残るのは、欲の強い、気のよくない(といったら失礼かもしれないが)人たちばかりになりかねない。たしかに、そうした帰結が想定できるところはありそうだ。それに近いことを、漱石も言っているのである。

 生計を立てて生きてゆくうえで、およそ社会にあるものはみな敵だという。ときに自分すらも自分の敵になるということである。人がよかったり気のよかったりする善人は、みな電車にひかれたり、川に落っこちたり、警察に(無実にも)しょっぴかれたりしてことごとく死んでしまっている。あとに残っているのは、みな悪人ばかりだというのだ。

 この見なし方には誇張が入っているといわざるをえないが、面白いとらえ方でもある。性悪説のようなものだろうか。じっさい、いい人ほど病なんかで早くに亡くなってしまう例もある。そういう例はまことに気の毒であり、アイロニーの一語で片づけてしまうことはできないだろう。かといって、長生きして老いることで、社会からあたかも邪魔もののようにあつかわれるのは、あってはならないことだとも感じる。そこが何とか解決されればさいわいである。