ひとりでは

 法哲学者の井上達夫氏には、こんな題名の著作があるそうだ(恥ずかしながら拝読はしていない)、『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』。これになぞらえていえば、リベラリズムのことは嫌いでも、リバティ(liberty)は嫌いにならないでください、なんていうふうにもいえるかな。リベラリズム(の一面)を嫌うことができても、リバティは嫌うことができない。

 変ななぞらえになってしまったようではあるが、リベラルのことは嫌いでも、とするさいのリベラルとは、属性のひとつだと見なすことができる。あくまでも表象(イメージ)であるにすぎないところもあるだろうから、枠としてあてはめてしまうと、恣意的になるおそれがある。

 自由主義(リベラリズム)の要素にあたるのが、自由なのかな。かりに自由主義の要素にあたるのが自由だとすると、この自由の要素というのは重要な根幹における部品としてある。そして、この部品を共有しているものは、じつに多い。たとえば、保守主義国粋主義なんかでも、自由をかかげているところがある。自由主義にたいして(イメージ的に)批判はできても、自由にたいしては批判はできづらいのではないか。

 ただし、自由の語は、かなり自由にとらえることができるのもたしかだ。20世紀において見られた全体化の方向に集団が向かうようであれば、それには最大限の警戒をもたないとならないだろう。
 もちろん、表現の自由を準則としてとらえれば、全体化をよしとする発言も頭から否定されるものではない。しかし、これは妥当とはいえないものである。社会において条件づけられたものと見るのがふさわしい。無条件な自由ではないわけだ。

 個人と集団とは、自由においては、ゼロ和のあいだがらにあるととらえられる。一方の自由が増大するともう一方が不自由になるところがありそうだ。集団が不自由になるとはちょっと言い方が変ではあるが、これは権力に制約がかかるといったことをさす。

 共同体主義なんかでは、完全な主体の自由は観念の産物にすぎないとして、批判を加えているようだ。共同体がもつ慣習や歴史といった負荷をもつのがふさわしい。これは、そうした負荷をもつべきだとして、応答性をあてはめている。つまり、共同体からの呼びかけに応じるべきだということである。

 そうした呼びかけとは、イデオロギーといってもよいだろう。そのイデオロギーからの呼びかけに応えるのが正しいかどうかは、その内容によるとしかいいようがないような気がする。もし内容がまずいものであれば、呼びかけに応じずに無視することもよいのではないか。たとえば、明らかにまちがった他国への戦争にもし参加せよといわれたら、断る(拒む)のがよいと思う。

 完全な主体の自由は観念の産物にすぎないとする共同体主義の批判も、たしかにうなずけるところがあると感じる。ほんのわずかの負荷をも持っていないようでは、共同体そのものが成り立たないおそれがいなめない。したがって、応答性にたいする配慮もあったほうがよいといえそうだ。

 作家の村上龍氏の本の題名で、『自由とは、選び取ること』といったものがあるのを見かけたことがある。選び取ることが自由の本質としている。これはなかなかよい指摘だなと感じる。選び取れるためには、いくつかの選択肢がなくてはならない。たんにたった一つのものがあるだけでは駄目である。

 アメリカの女流作家のウィラ・キャザーは、ひとりでは多すぎる、と言っている。ひとりでは、すべてを奪ってしまう、と続けている。このひとりとは、恋人のことを指しているようなんだけど、示唆的なところがある。このひとりを、ひとつと言い換えることもできるだろう。

 ひとりでは多すぎる、の指摘は、一夫一婦制における単一の配偶者についても言えはしないだろうか。かといって、一夫多妻制(または一婦多夫制?)がよいとは言えないかもしれない。そこは価値判断やモラルがかかわってくる。そのうえで、一夫一妻制が正しく健全であるとする根拠は、がい然性としてしかできないところもある。

 たとえばある物語なんかがあるとしても、それがひとつだけで、そのひとつですべてのものごとを説明してしまう(できてしまう)としたら、あまりにも乱暴なところがある。効率的ではあるが。やはりそこは相対化できたほうが健全だ。なにか別なものに持ちかえることができたほうがよい。

 ひとりでは多すぎるとしても、ではどうすればよいのか。これを共同体においてふまえると、少なくともどこか一つのところに属しているのは必要だろう。そうした(母国などへの)所属の自由はあるとして、そこからさらに、仏教の禅でいわれる一即多(多即一)、みたいなありかたがよいのではないか。一の位置にとどまるだけでなく、そこからずれるといったありかたである。そうした揺らぎがあったほうがどちらかといえば自由といえそうである。

 自由よりも、確実さや厳格さなんかをつい重んじてしまうこともある。そうしたもののほうが頼もしいからである。しかし、むしろ偶有性のようなものをあえてふまえたほうがよいところもある。なかなかじっさいには難しいときもあるけど。偶有性をふまえていれば、認知に確信をもつことに抑えがきくため、まちがった認知をすることを防げる部分がありそうだ。

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