表象のところから、大もののお笑い芸人を見て行く。
心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象(representation)だ。
性の加害のぎわくでとり沙汰されている、お笑いのダウンタウンの松本人志氏についてを、表象によって見て行くと、どうとらえられるだろうか。
いままで裁判をやっていて、テレビに出るのを止めていたが、テレビへの復帰が目ざされているのが松本氏だ。
かなり女性からもてるのが松本氏だろう。もてることの理由の一つとしては、落差をもつ。落差がある人は女性からもてやすい。
まったく落差を持っていない人は単純だ。松本氏はたんじゅんではなくて複雑な人だろう。落差をもつ。
お笑いについてを見てみると、善人の芸風ではないのが松本氏だ。善人の芸風で面白いのではない。どちらかといえば悪人の芸風であり、そうでありながら面白いのである。
芸能人としての松本氏は、善人の芸風を持っているのではなくて、どちらかといえば悪人の芸風だけど、じっさいの松本氏は善人だといったことが言われている。そこに落差がある。
悪い人のようでいて、じつは良い。芸能の活動をそのままうのみにすれば、悪い人であるようだけど、じっさいには良い人なのである。そこに落差があるから、もてることになる。
ずっと芸能の活動をやりつづけているのが松本氏だ。かつてよりも、人としての地が少し出てきてしまっているところがある。じっさいの善人としての地が表に出てきてしまっているところがあり、良い芸能人のようになっている。
お笑いは人を楽しませるものなのだから、良い芸能人だといってもよいけど、それをそのままうのみにはできづらい。たとえ良い芸能人であるかのようであったとしても、それをそのまま丸ごとうのみにはできないのがあって、じつは悪い人であるかもしれない。悪いところを部分としてはもつ。良い人のようでいて、悪いところがあるのである。良いようでいて悪いから、そこには落差がある。
人が楽しむのがお笑いなのだから、いっけんすると良いことであるかのようだけど、いじめのところを持つ。人をいじめて笑いをとるのがあり、いじめのところを問題化するのがなり立つ。善人の芸風なのではなくて、悪人の芸風なのがあるから、面白いのだとはいっても、悪いところを持つ。
つまらないのではなくて、面白い。面白ければそれで全てよいではないか、とは必ずしもならないのである。面白いのだとしても、だから(so what?)良いとはできなくて、悪いことも中にはある。冷笑(cynicism)なんかは悪い。
こわい顔なのがある。原則論として、面白いお笑い芸人は、みんなもれなく顔がこわいのだという。上にまで上りつめて、お笑いの天下をとったほどの人はである。こわい顔をしているのは、形式論だ。心がどうなのかは実質論である。こわい顔なのに、心はやさしい。人へのやさしさをもつ。愛をもつ。形式論と実質論がずれているから、落差がある。
価値がずっと変わらないのではない。価値が動く。すごい良い価値だったものが、落ちることになって、負の価値を持つ。はじめの良い価値だったのはお笑いでいわれるふりに当たる。正から負になって、負の価値になるのが落ちだ。正から負への落差がある。ふりと落ちとのあいだの落差だ。
すごい正のところがあるのが松本氏であり、お笑いにおいてえらい人だ。日本の芸能の世界で、かなり高いところにいる。高いところにいることから、それがふりになって、何か負のことがおきることによって、下に落ちることになる。ふりがきいているのである。えらくなくて下のところにいるのなら、ふりがきいていないから、負のことがあってもそこまで面白くない。ずっと負の価値のままで、価値はそのままだ。
光と闇があって、光が強くて明るければ明るいほど、闇もまた暗くなり、深くなる。光がすごい強くて明るいのだとしても、それだけなのではなくて、闇もまたある。闇の暗さがすごいあって、深い。浅くない。
複雑なところがあるのが松本氏であり、落差をもつ。たんじゅんではないことから、女性にもてるのがあるけど、表象としては、一つの像にまとまっていない。一つの像にまとまっているのであれば、統合されている。まとまりがなり立っていないと、非統合だ。
正と負があって、そのうちの負を切り捨てると、捨象することになってしまう。否定の契機が隠ぺい化される。否定の契機をまっ消することになる。負のところをひろい上げて、そこに焦点を当てて行く。
負のところに目を向けてみると、松本氏はとんでもなく正なのだとはできそうにない。正と負をあわせ持っていて、複雑なのがあり、落差をもつ。まとまっていなくて、像が非統合になっているのがある。外に表現されたものとしての松本氏の像は、完ぺきに一つにまとまっていて統合されているとはできそうにない。
正だけのまとまりによる自己同定(identity)なのではない。正だけでまとまっているのであれば、自己同定が統合されている。正の体系(system)だ。関係し合うことがらが集まったものなのが体系である。
心では、三つがあって、超自我と自我と基本の衝動だ。この三つが集まって、人の心がなり立つ。体系だ。自我は警察のようであり、基本の衝動を見はる。とりしまる。心のつり合いを何とかして保つ。
時には心のつり合いが崩れてしまい、基本の衝動が暴発してしまうことがなくはない。性のことなんかで失敗をしでかす。性欲が強すぎるとそうなることがある。
基本の衝動は、善悪の彼岸のところがあり、善と悪に分別されるよりも前のものだととらえることがなり立つ。だからといって、基本の衝動を自由にして、悪いことをやりたい放題にしてよいわけではないのはある。自我の警察がとりしまることがいる。
体系としては、正だけではなくて負ももつ。正も負もあり、それらを含んだ形で体系がなり立つ。正なのかそれとも負なのかをきっちりと割り切ることができず、割り切りづらい。正だけで割り切ってしまうと、そういうものとしてしたて上げたり基礎づけたりすることになる。
反基礎づけ主義によるのであれば、正だけだったり負だけだったりといったようにはしたて上げたり基礎づけたりできないことになる。天使のように良いところだけではないし、悪魔のように悪いところだけでもなくて、そのどちらでもあるのが人だろう。天使主義によるのだと、正だけだとすることになり、基礎づけ主義をとることになる。
芸能人は、しばしば天使主義によることがあって、商売のつごうでそうしたふうにされる。お笑いでも、天使主義によることがあり、正だけだとされることがあるかもしれない。人であるよりかは、お笑いの神さまのようなあつかいだ。戦前の天皇のように、人ではなくて神さまのあつかいになる。日本が戦争に負けて、天皇は神さまではなくてじつは人だったのだとなった。天使主義は、まちがいだったのである。基礎づけ主義はよくなかった。
参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『うたがいの神様』千原ジュニア 『脱アイデンティティ』上野千鶴子(ちづこ)編 『異本論』外山滋比古(とやましげひこ) 『象の鼻としっぽ コミュニケーションギャップのメカニズム』細谷功(ほそやいさお) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『天使とは何か キューピッド、キリスト、悪魔』岡田温司(あつし) 『法哲学入門』長尾龍一 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『ねじれの国、日本』堀井憲一郎 『「縮み」志向の日本人』李御寧(いーおりょん) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ)