れいわ新選組の大石氏と裏金の疑惑:政治家のうら金作りの現象に迫る

 すごいよい政治家は、いっさい裏金を作らないのだろうか。

 すごいよい政治家である野党のれいわ新選組の大石あきこ氏は、うら金を作っていたのだとして、おもに右派からの批判を受けている。

 改めてみると、うら金とは何なのか。それの定義づけはどういったものなのか。新聞の記事でそう問いかけているのが室井佑月(むろいゆずき)氏である。

 たしかに、政治のうら金の定義づけをはっきりとさせることはいることだ。定義づけは質である。その集まりである集合は量だ。内包つまり質と、外延つまり量である。

 せまいものとして質を定めると、量が少なくなる。広いものとして質を定めることもできて、うら金だったら、それそのものであるよりも、裏金のようなものだとすることがなり立つ。それそのものではなくて、何々のようなものであれば、質が広いから、量が増す。

 裏金を作っていたのではなくて、たんなる不注意だったのだとしているのが大石氏である。ほんとうに不注意だったのかもしれない。意図して不正をなしたのではないのだとしても、うたがうことはなり立つ。

 政治家が言うことは、伝達の情報(message)だ。政治家が意図(intention)どおりのことを言うとはかぎらないから、意図とはちがうことを言っているのだとうたがえる。それとは別に、政治家が言っていることがうまく伝わらないのは誤解だ。

 どういう見解(view)を持つのかがある。大石氏は良い政治家なのだから、大石氏が言うことをそのまま受けとるのが良い。そういう見解がある。それとはちがい、意図とはちがうことを大石氏が言っているのだとする見解もまた可能だ。色々な見解の持ち方がなり立つ。

 範ちゅうと価値の二つをふ分けしてみると、うら金の範ちゅうの中でも、色々な価値をもつ。与党である自由民主党の政治家によるうら金は悪い価値だ。野党のれいわの大石氏は良い政治家なのだから、うら金は良い価値をもつ。裏金を作っていたけど、悪くはなかったのである。同じうら金でも、価値のちがいをもつ。

 もともと逆説のところがあるのがうら金だ。良いものなのがうら金だったけど、それがとちゅうから悪いものに転じた。もとから悪いものなのがうら金だったのだとしたら、自民党の政治家がせっせとうら金を作るはずがない。自民党の中で多くの政治家がせっせと裏金を作っていたのは、はじめはうら金が良い価値を持っていたことを示す。

 ずっと一定の価値だったのではなくて、正から負へと価値がとちゅうで変動したのがうら金だろう。自民党における、宗教の統一教会との関わりもそうだ。統一教会と関わるのははじめは正の価値だったけど、それがとちゅうで負の価値に変動した。

 大石氏を良しとするのは、信頼することを示す。信頼できる政治家が裏金を作っていたのだとすれば、そこまで悪くはない。許容することがなり立つ。

 信頼できない政治家は、価値を共有できない。不信やさいぎをもたざるをえない政治家が裏金を作っていたら、そのうら金は悪い。許容できないことだ。

 少しでも政治家が悪いことをやったら、反対派からぶっ叩かれる。心理として悪いことは一般化されやすいからである。Bad news travels fast.と言われる。悪い知らせはすばやく伝わるのだ。

 自民党の政治家たちが作っていたうら金は、悪いことだけど、その再発の防止の策がとられていない。いまだに再発の防止の策がとられていないから、これから先に二度とうら金を作らないことの保証がない。

 よい政治家であるのにもかかわらず、うら金を作っていたとされかねないことをしたのが大石氏だ。たんなる不注意にすぎず、うら金だったのではないのにしても、再発の防止の策はとるべきだろう。

 説明の責任(accountability)もなくて、再発の防止の策もないのが、自民党で裏金を作っていた政治家たちだ。よい政治家なのが大石氏なのだから、自民党の政治家とはちがい、説明の責任をはたす。再発の防止の策をとって行く。それで信頼をつくり上げる。そうできたらのぞましい。

 大石氏へのまちがったかばい方になってしまうかもしれないが、完ぺきに純粋にきれいであることは、現実の政治ではむずかしいことだろう。きれいなのと汚いのとの二つのもので現実の政治はなり立つ。汚さはあるていどは避けられないのが現実の政治だが、それにしても自民党は汚さがひどい。汚さがうんとあって、きれいさが少なすぎるのである。

 理想論としては完ぺきにきれいな政治がなり立つ。現実論としては多かれ少なかれ汚さをともなってしまう。現実論において完ぺきにきれいな政治をなすのだとするのは、悪い意味あいにおいての修辞(rhetoric)だ。美しくかざり立てた言葉である。実質をともなわないうわべだけの言葉だ。

 東洋の陰陽の思想では、陽と陰の二つの極がある。きれいなのが陽だとすると、陽がきわまれば陰へ転じる。逆もそうであり、陰がきわまれば陽へと転じる。陽と陰の二つの極が混ざり合ったものが現実の政治だろう。

 いくら良いものであるのだとしても、それによりすぎるとかえって良くない。論理によるのが良いことなのだとしても、あまりに論理によりすぎると必ずしも良くない。お笑いなんかでは、すごいつまらないものが、いちばん面白いとされるのがある。中にはそうしたものがある。お笑い芸人の松本人志氏による。

 汚すぎていて、きれいさが少ない自民党をかばうのはあんまり良くないけど、どの政党やどの政治家であったとしても、きれいさだけではやって行きづらい。きれいさだけなのは表だけだ。政治では表だけではなくて裏もある。表の政治と裏の政治だ。自民党は裏の政治によりすぎているのは確かだ。そうはいっても、どの政党やどの政治家であったとしても、裏があり、汚さはあるものだろう。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優(まさる) 井戸まさえ 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代哲学事典』山崎正一(まさかず)、市川浩(ひろし)編 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『うたがいの神様』千原ジュニア 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし)