民主主義の二大政党制とはいったい何か : 自民党と立憲民主党の比較

 立憲は、自民党と同じなのか。それともちがうものなのだろうか。

 野党の第一党である立憲民主党は、与党と同じだ。与党である自由民主党とそう変わりはない。似たものどうしだというのである。

 数でいえば、少なくとも二つのものがいるのが民主主義だ。二つのものはないとならない。与党と野党だ。

 二つなければならないけど、一つだけしかない。立憲民主党自民党が同じようなものなのであれば、一つだけしかないことになる。見せかけの二大政党制であり、じっさいには一大政党制なのである。

 しっかりと二大政党制ができていれば数が二つだ。一大政党制だと一つしかないからまずい。

 現実の政治では、しっかりとした二大政党制はなりたちづらい。二大政党制と一大政党制のあいだのようになってしまう。

 アメリカでは共和党民主党の二つがあるけど、しっかりとした二大政党制ではなくて、一・五大政党制のようである。共和党民主党は、お互いに似てきてしまう。似たところがおきてしまい、そこまで大きな差がなくなる。

 二つの政党が競い合っているアメリカであっても、二大政党制であるよりは一・五大政党制のようになる。

 すごい良い政党とすごい悪い政党だったら、水準や次元がちがうから、ぶつかり合いにならない。お互いに似かよっていて水準や次元が同じくらいだからこそぶつかり合う。二であるよりは一・五くらいだからこそ、おたがいに争いになるのである。

 すごいかしこい者とすごいおろかな者どうしだったら水準や次元がちがうからけんかになりづらい。人(やその集団)はたいていはばかである。とくに集団だとばかになりやすい。人でも集団でも、虚栄心にかられてつっ走って行く。自然の状態(natural state)だとそうなる。戦争の状態だ。社会契約論による。

 アメリカと同じように日本でも立憲民主党自民党が似たものどうしのようになってしまうのはあるていどはしかたがないことかもしれない。一・五大政党制のようになる。どうしても似たところがおきてしまうのである。

 一つしか数がなくて一大政党制であったとしても、その一つのものが良いものであることがある。一つのものが悪いのだったらよくないけど、良いものだったとしたらどうだろうか。

 たとえば野党のれいわ新選組が政権をとったとして、れいわによる一大政党制をなす。れいわは良いものだとすると、れいわによる一大政党制は良いものなのだとできなくはない。

 たとえ良い政党であったとしても、その政党による一大政党制になると、民主主義ではなくなってしまう。民主主義では少なくとも二つのものがいる。一つだけしかないと民主主義はなりたたない。

 いまの日本の政治を見てみると、二つのものがなりたっていない。アメリカだったら、共和党民主党で二つあるけど、じっさいには一・五だ。

 アメリカは一・五のようになっているが、日本はそれにすらなっていない。民主主義がなりたっていない。日本は一つだけしかない。自民党専制や独裁である。一強のあり方だ。

 自民党の一強であるとともに、野党はばらばらだ。野党はまとまることができていなくて、共闘できていないのが日本である。

 野党どうしで共闘できていないと、複雑すぎる。色々な小さい政党が乱立していると、拡散することになる。あるていど収縮させることがいり、与党と野党で大きな二つの政党にするとたんじゅん化することがなりたつ。

 自民党に立ち向かうために、ばらばらな野党が一つにまとまって行く。野党どうしで共闘することができれば、与党と野党で二つになるから、民主主義がなりたつ。

 野党が共闘してまとまるとなると、たんじゅん化しすぎることになり、二つであるどころか一つになってしまう。自民党だけのあり方だ。自民党と似たものどうしになってしまう。二つにしようとすると、それが行きすぎて一つになってしまうのがあり、それを批判しているのがれいわ新選組だろう。

 さいていでも二つのものがいるのだから、一つしかないあり方を批判して行く。自民党の一つだけしかないあり方を批判するさいに、じゃあ二つのあり方にしようとすると、二つが行きすぎて一つになってしまうのが批判される。二つにしようとしても、じっさいにはせいぜい一・五にしかならないから、一つのあり方に近いところはある。

 うまいぐあいに拡散しているのを収縮させるのがむずかしい。一つだけしかないと収縮させすぎであり単純化しすぎになる。そうかといっていまの日本の政治のように野党がまとまれなくて共闘できないのもよくない。野党がばらばらだと拡散しすぎている。

 一つだけのあり方なのは収縮しすぎだから、それを批判すると、拡散しすぎてしまう。拡散しすぎているのを批判すると、収縮しすぎてしまう。二つのものがいるのが民主主義なのだとはいっても、うまいぐあいに二つにならなくて、じっさいには一・五ぐらいが限界だ。せめて二つのものがないと、国の中にいる色々な人たちの色々な声を十分にすくい切れない。色々な声がある中で、とり落としができてしまう。

 良いものが一つだけあればそれで十分だ。自民党は良い政党なのだから、それが一つだけあれば良いとする見かたがあるかもしれないけど、それだと収縮させすぎだ。野党に目を向けてみると、野党どうしがばらばらになっていると拡散しすぎている。

 野党どうしをまとめようとして、収縮させようとすると、収縮しすぎになり、二にするのが行きすぎて一・五とか一とかになりかねないのである。そこのところがむずかしい。なかなかちょうどよくつり合いを取りづらいのがあり、収縮させすぎであり、かつ(野党においては)拡散しすぎでもあるのがいまの日本の政治だろう。

 かくあるべきの当為(とうい)は一つであり、かくあるの実在は二より以上である。かくあるの実在だと二より以上だから、それを収縮して行く。拡散しすぎているのを収縮するのがいるけど、行きすぎると一つだけのあり方になってしまう。かくあるべきの当為だ。

 かくあるべきの当為によるのだと、一つだけしかないから、収縮しすぎであり、かくあるの実在をとり落とす。かくあるの実在には色々な人の色々な声があり、それが大事なのがあるけど、色々な声がありすぎて拡散してしまう。かくあるの実在のところを重んじつつも、拡散しているのをあるていど収縮したほうが良いのがある。

 絶対論ではなくて相対論によるのが民主主義だ。政治における相対論の表現なのが民主主義である。日本の政治では、野党どうしがまとまって共闘できたほうが良いのがあるけど、それは相対の正しさにとどまる。

 たとえ野党どうしが共闘するべきだとはいっても、かくあるべきの当為だと一つだけになってしまうから、かくあるの実在のところを見て行くことがいる。かくあるの実在では、れいわ新選組なんかは野党の共闘に積極ではなくて消極だから、かくあるの実在には色々な声があるのは確かだ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『「縮み」志向の日本人』李御寧(いーおりょん) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『法哲学入門』長尾龍一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし)