どのような政治家が、政党の長として選ばれるのだろうか。
あと一か月ほどで行なわれるのが与党である自由民主党の総裁の選挙である。
テレビなどで、総裁選の候補となる政治家がばんばんとり上げられている。報道がそれによって占められていることが、立憲民主党の野田佳彦元首相などによって批判されている。
やっていることがずれている。与党のではなくて、野党の政党(立憲民主党)の長をえらぶ選挙もまたなされるのだから、与党のではなくて野党の長をえらぶ選挙のほうを、報道がばんばんとり上げないといけない。
野党の長をえらぶ選挙をとり上げて行く。与党はむしろ、どちらかといえばどうでも良いくらいだ。野党についての報道を重んじるようにしないと、与党と野党のあいだの差がうまらず、固定化されつづけてしまう。勝ちは勝ちっぱなしで、負けは負けっぱなしがつづく。
どういう政治家が政党の長としてのぞまれるのかといえば、薬(vitamin)に当たる政治家だろう。華があるような、花形の政治家は薬だ。
ほんとうに薬になるのではなくて、うわべだけのものにすぎない。うわべだけ薬みたいな政治家が、政党の長にのぞまれる。
うわべだけではなくて、ほんとうに薬になるような政治家は、政党の長としてはあまりのぞまれない。人気がない。人望がない。受けが悪いのである。
景気がよいような政治家は、うわべだけ薬のような政治家だ。景気がよいことを言う。うわべだけ薬みたいな政治家は、現代思想でいわれる、薬と毒の転化(pharmakon)がおきてしまう。
やがて薬が毒に転じて、毒になってしまいそうな政治家が、政党の長としてのぞまれているのである。薬のような政治家は人気があって、毒のような政治家はきらわれる。きらわれている政治家は、毒のようではあるけど、薬に転じることがある。
多くの人から好かれるような薬のような政治家は、いっけんするとよいようだけど、それが毒に転じてしまう。よさそうではあるけど、じっさいにはよくない。良貨のようでありながら、悪貨のことがなくはない。悪貨に転じてしまう。
きらわれる政治家は毒だけど、あんがいそういう政治家のほうが力をもつ。力を得て行く。悪貨が良貨に転じる。または、悪貨が悪貨のままで、世の中に広く流通して行く。
ほんとうに薬になる政治家が人々から望まれているのであるよりは、薬っぽいことで、人々から受ける。人々からきらわれていて毒だけど、それがやがて薬に転じるような政治家は、受けが悪い。わかりづらいからである。
自民党の総裁選が報道でばんばんとり上げられるのは、その過程そのものが薬っぽいからだ。候補者の中には花形の政治家がいて、華をもつ。世襲の政治家なんかは華があり、受けがよい。テレビに映したさいに、画の映りが良いから、映える。それでごまかせるのである。
わかりづらいものは避けられる。わかりやすいものが好まれる。あとで毒に転じてしまうのだとしても、いま薬っぽければそれでよいのがあり、景気がよいことを言って行く。たとえ大事なことであったとしても、景気が少しでも悪そうなことは言われなくなってしまう。
なかなか見当たらないのが、ほんとうに薬になることだ。うわべだけ薬っぽいものであればいくらでもある。政治においては、ほんとうに薬に当たることはなかなか見つからなくて、薬に見せかけたものがやたらにはびこっている。あとで毒に転じてしまう。
いまあんまり人々から人気がなくてきらわれているものは、毒のようではあるけど、あんがい捨てたものでもない。薬は人気があって、毒は人気がなくてきらわれるけど、薬はすぐにだめになることがある。毒はあんがいしぶとく持ちこたえる。
人気があるから良いとはかぎらないし、不人気だからだめとも限らないのが、政治家について言えそうだ。人気があるのは、たんにうわべが薬っぽいだけであることが少なくない。ちゃんと中身がある政治家は、日本にはすごく少ないけど、そういう政治家は毒のようになるからきらわれがちだ。
参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『砂漠の思想』安部公房(こうぼう) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂(いないだしげる) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸