クルド人への差別と、政党に求められる姿勢

 差別をよしとする人を、政党は受け入れてはいけないのだろうか。こばむようにするべきなのだろうか。

 埼玉県の川口市は、クルド人の人たちがたくさん住んでいるという。クルド人への差別のうたがいがあることをなした人を、野党である立憲民主党は受け入れる。一部から、それが批判を受けている。

 立憲民主党は、差別のうたがいがある人を、党に受け入れるべきではない。そうした声がおきている。おなじ野党のれいわ新選組では、いったんは党に受け入れた人であっても、その人が差別の思想を持っていることがわかったら、党から外に追い出した。党の外に出てもらったという。

 汚いことなのが、差別をすることだ。差別の思想をもっている人は、汚いのだから、立憲民主党は受け入れるべきではない。きれいであるべきだ。どれくらい立憲民主党はきれいなのかといえば、そこまできれいではない。見かたによってはわりに汚い。

 もとから、けっこう汚さがあるのが立憲民主党だ。受け入れるもとである立憲民主党はそんなにきれいではないのだから、党に入ってくる人のことを、きれいだとか汚いだとかと言えたものではないところがなくはない。

 なんで立憲民主党はそこまできれいではないのかといえば、いっしょになっている大手の労働組合が、うんと汚い。立憲民主党といっしょになっている大手の労働組合は、すごい汚さをもつ。野党である日本共産党のことをすごく差別しているのである。反共産主義の思想の傾向(ideology)だ。

 日本の政党で、力をもっているところは、わりに汚い。きれいではない。与党である自由民主党はうんと汚い。差別主義者の政治家が自民党にはいて、へいきで活動をしつづけている。差別主義者の政治家が党の中にいてへいきで活動しつづけているのだから、自民党は差別をよしとしていると言っても言いすぎではない。差別をうながす。

 まったく差別をしたことがない政治家であれば、きれいだ。日本の政治家で、まったく差別をしたことがない人はいるのだろうか。いっさい差別をしたことがない政治家は、そこまでいそうにない。多くの政治家は、何らかの差別をなす。どうしても少しくらいは差別をしてしまう。

 立憲民主党に受け入れられる人から目を転じてみて、受け入れるところのものである立憲民主党に目を向けてみると、受け入れ先がもとからきれいではない。もしも立憲民主党がきれいなのであれば、共産党と共闘しまくっているはずだ。ほかの左派の野党と共闘しまくっているはずだけど、それほど共闘できていない。

 秩序を重んじるのだと、差別がおきてしまう。差別の秩序が保たれてしまう。日本は秩序の志向が強いのがあるから、差別が保たれつづける。なかなか差別が改まりづらい。優の階層(class)と劣の階層が固定化される。

 野党の共闘でいえば、日本で差別がおきているのと、共闘がなされづらいのとは、関わり合う。差別があるから、共闘できづらい。共産党への差別があるから、なかなか野党が共闘することができないのである。

 そこまできれいではなくて、汚さがあるのが立憲民主党だ。汚いのをきれいにして行くには、立憲民主党であるよりもむしろ共産党に目を向けるべきだ。共産党への差別をしないようにして、共産党を排除せずに包摂して行く。

 なんで共産党を排除せずに包摂するようにするのがよいのかというと、いまの日本の憲法をよしとしているのが共産党だからである。憲法では、差別が悪いものだとされている。法のもとの平等である。第十四条による。

 そこまで重みがあるのではないのが立憲民主党だ。立憲民主党に重みがあるのであるよりも、共産党を見て行く。共産党そのものが大事なのであるよりも、憲法が大事なのがあり、憲法をよしとして行く。

 日本にある差別を少しでもなくして行くためには、憲法を重んじて行くことが益になる。憲法を守らずにこわしているのが自民党であり、自民党は差別しまくりだ。自民党にかぎらず、まったく差別をしたことがない政治家は少ないだろう。

 多かれ少なかれ汚れているのが日本の政党であり政治家だ。大目に見れば、たしょうの汚れはしかたがないかもしれない。秩序を保とうとすると、差別がおきてしまい、ちょっとくらいは汚れてしまう。

 理想論としては、きれいであるのがよい。現実論としては、あるていどの汚さはやむをえない。現実においては汚さはつきものだ。政治はそこまできれいなものではなくて、汚さをもつ。現実論によるだけだと、汚くてよいとなってしまうから、理想論もいる。

 いっさい汚さがあってはならなくて、すごいきれいでないとならないのだとすると、政治はなりたちづらい。理想論によるだけだと、現実論が抜きになってしまう。負の面と正の面の二つによるのが政治だ。現実論によるのがいるのだとはいっても、いまの自民党による政治は汚れすぎているのはたしかだ。

 経済においては。資本主義は差別を生む。市場主義(等価原理)は差別の仕組みである。格差が広がりつづけて行く。市場がもつ良さがあるから、資本主義を頭から丸ごと否定するわけには行かないのはある。資本主義によりつつも、あまり秩序を重んじすぎると、うんと汚れてしまうから、それには気をつけたい。市場主義によりつつも、贈与の原理なんかがもっとあることがいる。

 参照文献 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『市場 思考のフロンティア』金子勝(まさる)