れんほう氏が叩かれることに意味はあるのか:叩かれて意味があるとは限らない

 れんほう氏が叩かれている。とうぜんのこととして、蓮舫(れんほう)氏が叩かれているのだから、良いことなのだとする見かたがある。

 元政治家のれんほう氏が叩かれることは、良いことなのか、それとも悪いことなのだろうか。

 価値としては、れんほう氏が叩かれるのは良い。それだけではなくて、れんほう氏が叩かれるのは悪いとすることもなりたつ。

 なぜれんほう氏が叩かれるのが悪いとすることもなりたつのかといえば、叩かれても(必ずしも)意味がないからである。

 意味がないのにもかかわらず叩くのだと、それが自己目的化しかねない。手段が目的化される。

 かりに、叩かれるれんほう氏の身になってみる。れんほう氏の立ち場(framework)に立つことができるとすると、もしも自分が叩かれたとして、ああ、叩かれてもしかたがないなとか、叩かれて当然だな、と思えなければ意味がない。

 なんで自分は叩かれるのだろう。全くいわれがないのにもかかわらず、なぜ自分が叩かれなければならないのだろう。叩かれるところのものであるれんほう氏がもしもそう思っているのだとすれば、叩かれることに意味がないのである。

 まえの段階において、れんほう氏がほかの政治家のことを叩いていたのがあるけど、それはさしあたって置いておきたい。話を限定するために、れんほう氏が叩かれていることだけを取り上げてみると、叩かれるところのものであるれんほう氏が、不遇感をもってしまったら、意味がなくれんほう氏が叩かれていることになる。

 たとえば、自分が何も悪いことをしていないのにもかかわらず、なぜか叩かれているとしよう。または、自分が何か良いことをしたのにもかかわらず、それでほめられるどころか、逆に叩かれてしまう。それで自分が叩かれることをすんなりと受け入れられるかといえば、受け入れられるはずがない。受け入れるべきだと言われたとしても、なっとくが行かないし、ふに落ちない。

 かんじんなことは、叩かれることのよし悪しや、叩かれるべきかどうかにあるのではなくて、対話がなされているかどうかだ。対話の交通(communication)が欠けていると、れんほう氏が叩かれることが意味をなさない。対話を抜きにして、ただたんにれんほう氏を叩いたところで、たんに一方的にだれかを叩いていることにしかなりづらい。

 理性の対話をすることを抜きにして、叩かれるべき人を叩いてしまうことがあるし、または、叩かれるべきではない人を叩いてしまうこともある。いずれにしても、理性の対話が欠けていると、叩くことが功を奏しづらい。意味をなしづらい。

 どうしてもなければならないものなのが理性の対話だ。理性の対話がないと、ばあいによっては理不尽になってしまう。不条理だ。不遇感をもつ。どうして自分は叩かれなければならないのか、とおもう。

 叩く立ち場からはわかりづらいけど、立ち場を転じてみて、叩かれる立ち場になってみる。叩かれる立ち場からすれば、意味もなく叩かれる、または、意味のない叩き合いになっていることがある。

 条件をもち出すことができるとすると、こういった条件がなりたつ。かりに、じゅうぶんに理性の対話がなされて、自分が深く叩かれることになっとくが行くのであれば、たしょうは叩かれるのはやむをえない。

 この条件をひっくり返して対偶(たいぐう)にしてみるとこうできそうだ。(叩かれる人が)叩かれることを受け入れられないのであれば、十分に理性の対話がなされていなくて、自分が叩かれることに納得がいっていない。ことばによるお互いの対話がなくて、だし抜けにひたすらに叩かれるのは良いことではないだろう。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)