イスラエルがやっていることは、正しいことなのか、それとも悪いことなのだろうか。
パレスチナに暴力をふるっているのがイスラエルだ。アメリカの大学の学生をはじめとして、世界の色々なところから批判の声があがっている。
どういう根拠をもち出せるのかがある。根拠としては、自由主義(liberalism)の他者危害の原則を持ち出すことがなりたつ。
なんでイスラエルが悪いことをしているのかといえば、自由主義の他者の危害の原則に反することをやっているからだ。パレスチナの人たちに危害を加えているのがイスラエルであり、その行ないが悪い。とりわけパレスチナの子どもや女性に暴力をふるう。
完全なものなのではなくて、底に穴が空いてしまっているのがある。いくら根拠を持ち出せるのだとしても、完ぺきなものなのではなくて、不完全さがある。
あくまでも世俗のところにおけるよし悪しに限られるのが自由主義だ。世俗をこえたところのものなのではない。世俗をこえたところのよし悪しは、とり除く。そこに限界があるのである。
脱魔術化で、科学によるあり方なのが近代だ。合理のあり方である。非科学や非合理なあり方によらないようにする。できるだけ科学や合理によるようにするのが近代のあり方だけど、再魔術化がおきているのがある。非科学や非合理をもち出してしまう。
いまは再魔術化がおきていて、前近代にたち返る動きがおきているのがある。世俗を超えたものをもち出す。イスラエルが、世俗を超えたものである宗教なんかをもち出したら、自由主義によらないあり方になってしまう。自由主義の限定されたよし悪しではないような、もっとつきつめられたよし悪しをとることになってしまう。
歴史はくり返す。そういったことになってしまい、前近代の宗教の戦争がふたたびおきてしまう。中世の宗教の戦争では、とてもひさんなことがおきたという。西洋においてだ。人々が暴力をふるい合う。多くの人に暴力がふるわれた。万人の万人にたいする闘争(the war of all against all)だ。終わりがない争い合いである。権威が無い状態だ。
かつての歴史をふり返ってみると、ひさんな宗教の戦争が行なわれて、その反省から作られたのが自由主義のあり方だ。他者の危害の原則が作られたのである。世俗においてはこれがもっともふさわしいものだとなった。
あくまでも世俗におけるものに限られてはいるけど、かつての歴史のひさんなできごと(宗教の戦争)をふまえたものなのが自由主義だ。自由主義を押さえないで、世俗を超えたものを持ち出すと、失敗がおきる見こみが低くない。
危険性が低くてぶなんなのが、自由主義を押さえることだ。イスラエルは自由主義を押さえないで、世俗を超えた宗教なんかを持ち出しているのだとすると、危険性への移行(risky shift)がおきていることを示す。
ちゃんと歴史をふり返るようにして、かつてのひさんなできごと(宗教の戦争)をくり返さないようにしないとならない。負の歴史がふまえられているものである自由主義によるようにして行く。
イスラエルの悪い行ないの本質をぎんみしてみると、自由主義の大切さが浮かび上がってくる。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義であり、立ち場がかたよりすぎるとあやまちをしでかしやすい。立ち場のかたよりを改めるために、イスラエルを批判することがいる。立ち場の中心化を和らげるようにして、脱中心化することがいるのがイスラエルだ。
参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『法哲学入門』長尾龍一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし)