国葬と、時代性―後期の近代(late modernity)や脱近代(post modernity)のいまの状況

 国葬が行なわれることになっているのが、安倍元首相だ。

 国葬には、しっかりとした根拠があると言えるのだろうか。

 こういう条件が当てはまるときには、だれであっても国葬が行なわれるといったようには、はっきりとした法の決まりが定められていない。

 特別な例外のようなかたちで、安倍晋三元首相の国葬が行なわれようとしているのがあるから、独断によっている。独断によるのは、根拠が弱かったりうすかったりするものだ。

 独断によるもよおしになっているところがあるのが、国葬だろう。

 すごくしっかりとした根拠があるのが、国葬なのだとはいえそうにない。

 あらためて見てみると、根拠に不たしかさがあるのが、国葬だ。その根拠の不たしかさを、おおい隠すためのもよおしなのが国葬である。

 いまの時代は、後期の近代(late modernity)であり、その状況においては、さまざまなものの根拠が不たしかなことがあらわになっているところがある。

 よくよく見てみると、日本の国には、しっかりとした根拠がない。それと共に、安倍元首相にも、しっかりとした根拠がない。それらは、かっことしたものとしてある(あった)のだとは言い切れそうにない。

 日本の国には、不たしかなところがあるから、国によるもよおしである国葬にも、不たしかさがある。つっこんで見てみると、日本の国が何なのかがよくわからなくなっているのがあり、自明性が崩れている。

 足場となるものである根拠が、石みたいに固いのであれば、それにすがることができる。後期の近代であるいまの状況では、石みたいに固い根拠がなくなっていて、ぺらぺらのうすい板のようなものになっていて、すがることができづらい。

 一つの国や一人の人は、独立してあるのではなくて、ほかの国々やほかの人びととの関係の中にあってはじめてなりたつ。関係が先だっていて、関係の網の目(network)の中の一つの点として、国や人があるのにすぎない。関係主義からすれば、そう言うことがなりたつ。関係の第一次性だ。

 網の目の中の点としてしか、国や人はないのだから、それらは、点としてはあるといえるけど、点としてしかないとも言える。その点は、ほかのいくつもの点とつながり合っていて、点どうしがくっつき合っている。点どうしを完全には分けづらい。

 関係の網の目の中で生成されたものなのが点としての国や人だ。まだ国や人がなかったときから、どこかの時点でそれらが生成されて、それらがあることになり、変化していって、どこかの時点で(人であれば)死にいたる。

 生成されたものとしての国や人は、それがあるときには、たえず変化しつづけて行く。時間が流れることによって、変化して行く。一〇〇年前のその国は、別の国(他国)だと言っても言いすぎではないし、一〇年前のその人は、別の人(他人)だと言っても言いすぎではないだろう。それでどこかの時点で死にいたり、無くなることになるけど、もともと無いものだとすることもなりたつ。

 生成されることによって、それがあるかのようになるけど、もともと無いものであり、仏教でいわれる空(くう)である。国も人も、空だから、つっこんで見てみれば無いものだと言えるだろう。玉ねぎはあるけど、玉ねぎの芯や核はなくて、玉ねぎの皮しかないようなものである。

 独断によっていて、根拠が弱いものなのが国葬だけど、それをできるだけしっかりとさせて、強いものにするように努めるべきだった。弱いままになってしまっていて、その中で行なわれようとしているのがあるけど、それとは別に、後期の近代のいまの状況においては、石のように固くてすがることができる根拠はない。

 後期の近代のいまの状況では、ぺらぺらの板のようにうすい根拠しかなくて、少し足で踏んづけただけで板に穴が空く。足で踏んづけてみると、すぐ穴が空いてしまうような根拠によっているから、穴が空きまくりになっている。国にも人にも、それがいえるのがあり、国や人の自明性が崩れている。足で踏んづけてもかんたんに穴が空かない、固い石のようにすがれる自明性は、見当たりそうにない。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦構築主義とは何か』上野千鶴子編 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや)、荻上チキ編 飯田泰之 鈴木謙介 橋本努 本田由紀 吉田徹 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『社会学になにができるか』奥村隆編