犯人の思うつぼになることと、それが悪いことなのかどうか―誰の思うつぼになってしまうのか

 犯人の思うつぼになってはいけない。安倍元首相を殺した犯人のねらい通りになってはいけないのだという。

 犯人の思いやねらいや意図があって、それらがかなってはいけないのだろうか。

 法の決まりの点から見てみると、犯人がおこした事件は悪かった。法の決まりに反していた。他者の危害の原則に反するものだったのである。

 殺人は、法の決まりに反することだから悪い。

 犯人がどういう思いやねらいや意図をもっているのかがあるけど、それらがかりにかなったとしても、法の決まりに反するとはかぎらない。

 法の決まりに反するものでないのであれば、犯人のもっている思いやねらいや意図がかなっても、とくに悪いことではないだろう。

 あることが悪いことだと言えるのは、一つには法の決まりに反しているからなのがある。悪いことをするのは、罪に当たる。罪にたいして、ばつがくだされる。

 他者に危害を与えるようなことは、法の決まりに反することになるので、罪になる。他者に危害を与えずに、法の決まりに反するのでないのなら、あとのことは自由だから、犯人の思いやねらいや意図がかなっても、悪いことだとはかぎらない。

 犯人が、全人として、総合で悪いといえるよりも、もっと限定化できる。殺人の行動をおこしたから犯人になったのであって、犯人だと表象(representation)することになる。犯人だと見なしているわけである。

 犯人だと見なさないようにすることもなりたつ。罪になる行動と犯人とを組みにするのを、切り離してしまい、個人として見てみる。何々さん(日本太郎さんなど)として見てみる。個人として見てみれば、誰でもがそうであるように、良いところもあれば悪いところも持っているものだろう。

 どういう見解(view)を持つのがふさわしいのかでは、だれが、どんな意図(intention)を持っていて、どういうことを言う(message)のかがある。何を言うのかに、政治性や作為性や意図性がある。

 犯人の思うつぼになってはいけないと言うのは、そこに政治性や作為性や意図性がある。犯人の思うつぼになることで、だれが損や害を受けるのかといえば、与党である自由民主党や、韓国の新宗教(旧統一教会)だろう。犯人の家族(母親)は、新宗教から被害を受けて、家族がこわされた。犯人は新宗教と対立していた。新宗教自民党とは関係が深かった。

 どうして犯人の思うつぼになってはいけないのかを見てみると、自民党新宗教の保身のためなのがある。何が悪いことなのかは、一つには、法の決まりに反することがあげられるけど、いちがいに何が悪いことなのかは定かとはいえそうにない。

 客観または本質に、何が悪いことなのかを決めるのはむずかしい。悪いことの、最終で絶対の根拠があるとはいえないのがある。絶対の悪は、ひっくり返って、絶対の善に転じることがある(逆もまたしかり)。根拠に穴が空いていて、穴にフタをすることになる。それが悪いことだから悪いのだといった自己循環論法におちいる。

 あらかじめ、これが悪いことなのだと決めてしまわずに、犯人の思うつぼになることを含めて、いろいろな意見が言われたほうがよい。自由の気風があるようにして、自由にいろいろな意見が言えたほうがよい。

 参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司