ロシアとウクライナとのあいだで、戦争がつづいている。
戦争がつづいていることについてをどのように見なせるだろうか。
いったん、ロシアとウクライナを引きはなす。いったん、戦争を止めて、休戦する。冷却の期間をつくる。頭を冷めさせるようにする。
電気の機器であれば、スイッチを入れて、入力が入っていれば、機器に電流が流れつづけて、作動しつづける。スイッチを切り、入力を切ってしまえば、機器に電流が流れなくなり、作動が止まる。
機械として見てみると、国の機械や、戦争の機械がある。それらの機械が作動していることで、国どうしがぶつかり合い、戦争がおきている。
戦争をやめさせるには、国の機械や、戦争の機械に、電流を流さないようにする。入力を切ってみる。
哲学者のジル・ドゥルーズ氏は、何々機械として、いろいろなことを機械に見立てられるとしている。人間であれば、人間機械と言えて、人間の体の部位であれば、手機械とか足機械とかがある。口機械とか、肛門機械がある。
機械がなめらかに作動していると、その機械の作動に巻きこまれてしまう。機械の作動に動員されてしまう。
機械そのものをぶち壊すことができないとしても、いったん機械の作動を止めてしまう。それで、戦争であれば、戦争をいったん休戦させて、間(ま)を置く。休戦しながら、和解をさぐって行く。
二人の人間がいて、お互いにけんかをし合う。けんかをしているのを、けんかの機械のように見なせるとすると、そのけんかの機械が作動しつづけるのがある。
けんかをし合っている二人の人間を、引きはなしてしまう。距離をあける。間合いをあける。そうすれば、けんかの機械が作動しづらくなる。機械の入力が切れて、電流が流れなくなる。ふたたび電流が流れてしまうと、けんかが再び行なわれることになる。
機械に電流が流れていて、作動するのは、哲学の現象学でいわれる、自然の態度である。電流を流さないようにするのは、現象学の判断の停止である。現象学の還元である。日ごろおちいっている、かたよった見かたである臆見(doxa)を、カッコに入れて、わきに置いておける。
日ごろの自然の態度や臆見(おっけん)は、体でいえば、体のあちこちにあか(垢)がついている。あかの汚れが付いたままになっている。きれいなようでいても、あかだらけだ。あかが溜まっている。あかが付いているのをそのままにしておかないで、それを落としてきれいにするのが、現象学の判断の停止や、現象学の還元だ。
自然の態度で、電流が流れつづけていると、ばかばかしいことであっても、そのままやりつづけてしまう。それを、電流を流すのをやめて、現象学の判断の停止や現象学の還元をやることで、われに返れる。ばかばかしさに気づける。
国は、機械としては巨大だから、いったん作動すると、なかなか止めづらい。電流が流れつづけて、入力が入りつづけてしまう。自然の態度が引きつづきやすい。
戦争をするか、それとも棚上げにするかがある。戦争をやってしまうと、戦争の機械が作動することになる。機械の作動を止めて、棚上げにしてしまう。棚上げにした上で、和解をさぐって行く。
国どうしで戦争がおきてしまったら、そこで何よりも大事なのは、戦争の機械を止めることだ。いったん機械の作動を止めて、電流を流れなくする。
いちばんのぞましいのは、戦争を未然に防ぐことであり、戦争の機械をまったく作動させないようにする。機械に電流が流れないようにしておく。入力を切りつづける。そうすれば、戦争がおきづらい。
棚上げにするのでないと、戦争がおきてしまうところがあるから、戦争の機械が動いていないかによく注意しないとならない。日本では、いま戦争の機械が動いてしまっている。機械に電流が流れてしまっている。ばかばかしくて、おろかなことに(再び)つき進もうとしている。日本の国の、かつての負の歴史を忘却してしまっているからだ。
参照文献 『平和を創る発想術 紛争から和解へ(岩波ブックレット)』ヨハン・ガルトゥング 京都 YWCA ほーぽのぽの会訳 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき) 『哲学的思考 フッサール現象学の核心』西研(にしけん) 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき)