日本の国を、枠組みとして見てみる―枠組みの保守(慣習)と革新(反省)

 現実に、憲法を合わせる。日本の国に、憲法を合わせる。憲法の改正をして、より現実や日本の国に合ったようにして行く。

 枠組み(paradigm)によって見てみると、憲法にまつわることを、どう見なせるだろうか。

 枠組みの理論によると、改善期と革命期の二つがあるのだとされる。

 憲法の改正をよしとするのは、憲法が(改善期ではなくて)革命期になっているのだとすることになる。改善期で、(白を黒とするような)解釈で何とかやって行くことはもはやできない。もう無理がきかない。憲法の改正をするしかない。

 いまの現実はどうなのかといえば、現実が(改善期ではなくて)革命期になっている。いまの現実は、どう転ぶのかがわからなくなっているところがある。世界で核戦争がおきることもないではない。

 現実が革命期になっているのだとすれば、むしろ憲法を改めてとり上げるようにして、それを重んじて行く。憲法をたよりにすることによって、現実が革命期になっているのを乗り切って行く。指針のようなものとして憲法を使って行くやり方だ。

 日本の国を見てみると、日本の国は(改善期ではなくて)革命期に入っていると見なすことがなりたつ。自由民主党の一党が支配しつづけてきたのがこれまでの日本だが、それがこわれてきている。戦後の五五年体制や、利益の分配の政治ができなくなっているのである。

 憲法が革命期に入っているのではなくて、現実や、日本の国が革命期に入っている。憲法の改正をよしとするのは、現実や日本の国が革命期に入っているのを見えなくさせて、それをごまかすためのものだ。

 何がもたなくなっているのかといえば、憲法であるよりは、現実や、日本の国がもたなくなっている。日本の国の財政がもはやもたなくなっていて、不利益の分配の政治を避けられなくなっている。

 現実や、日本の国を、改善期であるとしてしまうと、日本でいえば、これまでの五五年体制や、利益の分配の政治を保ちつづけようとしてしまう。五五年体制がこわれていて、与党である自民党がそうとうに劣化して質が悪くなっているのをとり落としてしまう。利益の分配の政治ができなくなっているのに、それができるかのようにしてしまう。

 いまの日本では、現実や、日本の国が、まだ改善期にとどまっているかのようにしている。改善期にとどまらせる力が強い。じっさいには、改善期ではなくて、革命期に入っているのである。うわべでは改善期にとどまっているかのようになっているから、見まちがえがおきてしまう。

 いくつもの枠組みがあって、枠組みどうしの関わり合いがあるが、それらが、いま改善期なのかそれとも革命期なのかを見て行ける。日本では、革命期に入ると、改善期にとどまりつづけようとする動きがおきる。反動や復古の動きがおきる。いまの自民党は、右傾化が強まっていて、反動や復古になっている。

 それまでの枠組みをもたせつづけようとしているけど、もはやもたなくなっている。憲法にはそれが言えないけど、現実や、日本の国にはそう言える。枠組みとしては、憲法は革命期に入っているとはいえないけど、現実や、日本の国は、もうもたなくなっているところがあり、革命期に入っている。

 革命期に入ると、それまでに持っていた利益や特権を失ってしまう。利益や特権を手放したくない。そこから不利益の分配の政治がおきて、不利益の分配の闘争が行なわれる。

 これまでの秩序のあり方は、改善期によるものだけど、その秩序のあり方におかしさがある。秩序を保ちつづけようとするのが、改善期にとどまりつづけようとすることだ。秩序のおかしさをとり上げて、それを改めて行くことがいるのがあり、それをやるさいには革命期に入ることになる。

 どの枠組みを、革命期にして行くことがいるのかといえば、それは憲法であるとはいえそうにない。憲法は改善期にとどまらせたままで、現実や、日本の国を革命期に入らせる。それで、現実のおかしさや、日本の国のおかしさをとり上げて行き、それらを改めて行く。

 現実や、日本の国を、改善期にとどまらせてしまうと、それらの悪いところを見落としてしまう。もはや、現実や、日本の国が、枠組みとしては持たなくなっていることをとり落としてしまう。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『決定版 日本という国』小熊(おぐま)英二 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『自民党 失敗の本質』石破茂他 『日本人論 明治から今日まで』南博 『維新の影 近代日本一五〇年、思索の旅』姜尚中(かんさんじゅん) 『右傾化する日本政治』中野晃一