ロシアとウクライナの戦争と、可能性と必然性―可能性の芸術としての政治

 ロシアがやっている戦争を、可能性と必然性に分けて見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。

 まだロシアがウクライナに攻めこむ前であれば、戦争がおきることは可能性にとどまっていた。必然として戦争がおきるとは言い切れなかった。

 どれくらい戦争がおきるおそれがあったのかの、戦争がおきる生起の確率は、一〇〇パーセントとは言えなかったはずだ。戦争がおきる確率は、そこまで高くはないと見られていたのも中にはあった。

 まだじっさいに戦争がおきていなくて、必然ではなくて可能性にとどまっていたさいに、そこまで高い確率とは見なされていなかったのもあった。その中でロシアは戦争を引きおこしたのがあり、それによって戦争がじっさいに生起することになった。

 ロシアによって戦争が引きおこされて、戦争が生起したあとになったら、戦争がおきたのは必然性に当たる。

 まだ可能性の次元に当たるときであれば、戦争がおきるかもしれないし、おきないかもしれなかった。戦争がおきるとも言えるし、おきないとも言えた。

 必然性の次元に移ったら、戦争がおきたか、おきなかったかの二つに一つだ。現実に、戦争がおきたのか、それともおきなかったのかのどちらかであり、どちらかだけしか正しくない。

 戦争がじっさいに生起していて、それが必然性に当たる中で、可能性の点を見てみられるとすれば、どのような可能性があるだろうか。可能性の点を見てみると、さかのぼっていえば、戦争がおきないようであるべきだった。いまはもう戦争がおきてしまっていて、それが必然性に当たることになってしまったけど、それいぜんの可能性のときに戦争がおきるのが防がれるべきだった。

 政治は可能性の芸術といわれるのがあり、必然性を受け入れるだけでは十分ではないだろう。可能性に当たるときに、どれだけ戦争を防ぐために努力することができるのかが、政治における外交の努力だろう。可能性に当たるときに、戦争を防ぐための外交の努力が十分に行なわれていたのかはうたがわしい。

 いまはロシアによって戦争が引きおこされているが、その中で、可能性を見てみると、いろいろな可能性があげられる。このまま世界で第三次世界大戦がおきる可能性も否定できない。ロシアが核兵器を使い、世界で核による戦争がおきる可能性もありえる。

 可能性の中でいかに努力することができるのかが政治ではいるから、ロシアの戦争においては、戦争をいかにすみやかに止めることができるのかがいる。戦争をはやく止めることは、可能性としてありえることだから、それをなすために外交で努力することがいる。

 いっこくもはやく、はじめられてしまった戦争を止めることが必要だったが、その可能性は現実にはならず、いまだに戦争が引きつづいている。はじめられた戦争がすぐにとまることは、可能性としては現実化せず、戦争の持続が必然性に移ってしまっている。

 いろいろな可能性がある中で、どういう可能性が政治において目ざされるべきかと言えば、西洋の哲学の弁証法(dialectic)でいわれる止揚(aufheben)だ。正と反を、合の止揚にもって行き、戦争を止めて行く。いまのところは合の止揚にもって行けていなくて、正と反(ロシアとウクライナ)との対立がつづいている。

 正と反の対立がつづいていて、戦争がつづいている中で、アメリカにある軍需産業などが経済の利益を得てもうけることは、あってはならないことだろう。アメリカにある軍需産業をよろこばせないようにして、もうけさせないようにするためにも、合の止揚にもって行き、できるだけはやくに戦争を止めることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理的に考えること』山下正男