五輪と日本の政治―政治を運動になぞらえてみたい

 東京都で夏に五輪がひらかれた。これから東京都でパラリンピックがひらかれようとしている。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、五輪がひらかれて、パラリンピックがひらかれようとしているが、日本の政治を運動の競技になぞらえられるとするとどういったことがいえるだろうか。

 日本の政治のお上のことを、運動の集団の長にあたる監督や主将だととらえられるとすると、監督や主将のいたらなさがある。へぼである。

 集団性が求められる運動の競技で、西洋の国と日本とではその質にちがいがある。西洋のほうが上手であり、日本は劣るところがある。

 肉体として西洋人のほうがすぐれていて日本人は劣っているところがあり、西洋人のほうが体格がりっぱである。それだけではなくて、集団を率いたり束ねたりするのにおいて、西洋のほうがそれがうまくて日本は下手なところがある。

 運動の競技において言えることが、国の政治においても同じように言えそうだ。運動でいうと、西洋の国は集団の長にあたる監督や主将がわりあいにすぐれていることがある。監督や主将をになう資質のある人がその地位に立っていることがある。

 運動でいうと日本の国の政治は集団の長である監督や主将がたよりない。一部からは監督や主将があがめられてはいるが、監督や主将がうまく集団を率いられていない。率いられていないのを、選手のせいにしている。選手がだめだからだとしているが、そもそも監督や主将が選手にたいしてものごとをきちんと伝えられていない。ものごとを選手にたいしてつまびらかに伝えようとしていない。

 西洋とはちがい、日本はどちらかというと、言わなくてもわかるといったあり方だ。監督や主将のことを選手にそんたくさせる。空気を読ませる。そうしたやり方がとられているが、それが悪くはたらく。そんたくさせることや空気を読ませることによりすぎているから、集団の中のたがいの意思疎通の食いちがいがあちこちでおきている。

 理想論と現実論に分けて見られるとすると、理想としての監督や主将のあるべきあり方と、現実のそれらとのあいだの落差が激しいのが日本の国の政治だろう。現実における日本の政治のお上は、見てくれやうわべをとりつくろうことにかまけていて、内実や実質が欠けている。一部の選手からそれを見すかされているところが少なくない。

 一部の選手から見れば、監督や主将のだめぶりはよく見てとりやすい。監督や主将は、集団の中であるていどより以上に信頼されていることがいり、みんなで大まかな目標を共有しなければならないが、それができていないのが日本の政治だろう。それぞれがちがう別々の方向を見ている。

 監督や主将は選手にたいしてできるだけわかりやすいはっきりとした指示をすることがいるが、そこにいい加減さがあるのが日本の政治だろう。よく言えば柔軟性があり融通がきいているのかもしれないが、悪くいえば有効で的確な指示を選手にたいしてできていない。右に行けと言いながら左に行けとも言っている。右に行くなと言いながら右に行くことをそそのかす。

 日本の政治では、お上からの指示が矛盾したものになっているところがあり、選手がどう動いてよいかがわかりづらい。ちぐはぐな指示になっていて、それで選手がまちがった行動をしたら、選手が悪いことにしている。選手が悪いのであるよりも、指示のしかたが悪いと言えるだろう。

 かつての大量生産と大量消費の時代であれば、監督や主将がたいした指示をしなくてもうまく集団が回っていた。監督や主将がへぼでお飾りでも集団が何とかなった。いまはそうではなくなっている。監督や主将のへぼさやお飾りさが目だちやすくなっていてそれが浮きぼりになっている。

 世界がグローバル化しているのがあるために、お上が国を制御しづらい。国のあちこちに穴が空いていて穴ぼこだらけになっている。監督や主将は多かれ少なかれお飾りにならざるをえない。監督や主将の仕事がより難しくなっているから、だれがその役割をにない、だれがその地位についたとしても(だれが選ばれたとしても)、能力のなさがあらわにならざるをえないのはあるかもしれない。運動の競技でいうと、その競技の難易度がかつてよりも上がっているのがある。

 参照文献 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお)