人間の集団のあり方の時代によるちがい―文明の進みぐあい

 集団にとってのぞましくない人は、集団の中で否定されることになる。殺されることがある。人間の集団は古い昔からそのようにしてきている。いまの世の中では路上生活者(homeless)や生活保護の受給者にそれを当てはめられる。そうしたことを芸能人は言っている。

 芸能人がいっているように、集団の中においてのぞましくない人は、集団の中で否定されることになるのだろうか。古い昔からそうしてきているから、いまの世の中でもそうであることがよいことなのだろうか。

 人間の歴史をふり返って見られるとすると、人間は古くから集団を形づくってきたのはある。そのなかで集団の秩序が重んじられることで、その中の個人が否定されることはあったものだろう。

 古いむかしから人間の集団が形づくられてきていて、その秩序が重んじられてきたからといって、古い昔といまとをまったく同一なものと見なすことはできづらい。かつてといまとを時系列の流れによって見てみることがいる。

 いまの時点からふり返って見られるとすると、昔において悪いことが色々に行なわれてきた。昔からいままでずっと人間はよいことだけをしつづけてきたわけではない。人間の歴史は戦争の歴史と言ってもいいすぎではないから、悪いことをしつづけてきているのである。

 戦争の見なし方一つをとってみても、その見なし方は昔とまったく同じなのではない。かつては戦争は合法だったが、いまはいちおう違法なものになっている。いまは武力の行使は原則として国際的に法で禁じられているのである。昔はそうではなかったのが、だんだんと文化の力(soft power)がより高まってきたことによる。

 これまでに人間はどういったことをやってきたのかがあり、歴史をもっているから、その歴史において形づくられることになった法の決まりがある。歴史が反映されていることによる。

 昔からいままでずっと同じあり方がとられつづけているのであれば、まったく歴史の反省がないといったことになる。同じあやまちは再びくり返すまいといったことで、あやまちを再びくり返すことを防ぐために法の決まりがつくられてきている。

 昔からいままで大きな進歩が見られないところが人間にはあるところがあるが、そのいっぽうで前近代と近代といったようにそのあいだに切断の線を引けるのがある。画期(epoch)となる切断の線があり、その前とあととではあり方が変わる。

 前近代とはちがって、近代では普遍の文明のあり方として、すべての人が個人として平等であるとするあり方がとられている。これはそうあるといった実在(sein)であるよりはそうあるべきだといった当為(sollen)ではあるが、それによって社会が営まれているのである。

 文明の進みぐあいがあるから、昔はその進みぐあいが低かった。いまはいちおう進みぐあいはそれなりのものにいたっている。文明の進みぐあいは、個人の基本の人権(fundamental human rights)を重んじているかどうかではかることができる。

 時間の流れは一方向に流れているから、まったく昔と同じあり方にそっくりそのまま逆行や退行するとは言えそうにない。いちおうの進歩や発達や発展といったものがあるから、そこを無視することはできないものだろう。

 昔と同じあり方のままでよいのだったら、そこに進歩はないのだから、そこに成長といったものもない。少しでもよりよいあり方にして行くのがよいことだから、最低でも多少の改善や改良を目ざすことは試みとしては現実にはいることだろう。

 理想論と現実論があるとして、理想論だけでは危ないが、現実論だけでものぞましくはない。哲学の新カント学派の方法二元論によって見てみられるとすると、事実と価値に分けて見ることがなりたつ。事実は価値によって批判されることがいるし、価値は事実によって批判されることがいる。

 人間の集団の中がこうなっていたとか、こうなっているとかといったことは、事実に当たるものだ。事実とは、そうであるといったことだから、そうであるべきだといったことを必ずしも意味するものではない。どうあるべきかの価値についてはそれそのものを別なものとして見て行くことがいる。

 文明の進みぐあいの高さからすると、個人の人権が重んじられて、すべての人が平等にあつかわれて、差別や特権がないことがのぞましい。できるだけ犯罪がなされないように未然に防いで行く。悪いことが行なわれたさいには、ただ重い罪をかすといったことではなくて、あくまでも理性の対話によって正義を回復させて行く。

 進歩の段階を低いものから高いものまで定めて、その価値づけを絶対化することはできないのはあるが、文明のていどといったものはいちおうあるものだろう。または文明のあり方がどういうふうであるのがのぞましいか(またはのぞましくないか)といったことを見て行ける。

 どういう文明のあり方がのぞましいのかといえば、そのていどや進みぐあいが低いのよりは高いほうがよりよいのはあるだろう。大まかにはそう言うことができるから、前近代の個人の人権がまったく認められていなかったあり方がよいのだとは言えそうにない。近代のあり方を絶対によいものだと見なすことはできないのはあるが、近代において得られた個人の人権や立憲主義などの成果があるから、それを生かすようにして行く。

 何でもよいとか何でもありだといったことだと、虚無主義(nihilism)や現実のあり方をただたんに肯定するといったことにおちいってしまうから、それには気をつけたい。いまの時代はグローバル化しているのがあり、複雑系(complex system)になっているために、ものごとの意味あいがわかりづらくなっているのがある。国が絶対に安定しているものではなくなっていて、揺らいでいるのがあり、国のあちこちに穴が空いていて穴ぼこだらけになっている。

 複雑系になっていることから、ある人が幸福であったり不幸であったりすることが偶然に左右されるところが大きくて、うまく説明をつけづらい。自己責任論を当てはめないようにしてみれば、ある人が幸福だからといってその人の手がらによるとは言い切れないし、ある人が不幸だからといってその人に責任があるとは言い切れそうにない。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『「複雑系」とは何か』吉永良正 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠