なぜ五輪は中止されないのか―五輪が中止されづらいことを逆から見てみたい

 そんじょそこらのことでは五輪は中止にはならない。世界最終戦争でもおきないかぎりは五輪は行なわれる。国際オリンピック委員会(IOC)の関係者はそう言っていた。

 そうかんたんには五輪は中止にはならないのはなぜなのだろうか。世界最終戦争でもおきないかぎりは五輪が行なわれるのはどうしてなのだろうか。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、五輪が中止されるべきなのだとすれば、なぜ中止されるべきであるのにもかかわらず、中止されないのだろうか。そうであるべきこととそうではない現実とのへだたりがあるのはなぜなのか(why so?)を見て行ける。

 国がうしろだてになっていることによって、五輪が行なわれることがほぼまちがいのないことだとされる。大船に乗ったようなことになり、その大船がまずいことになることはおきづらい。

 五輪は国がになうことで、大船に乗ったようなことになる。そこに見てとれるのは、二〇世紀によるあり方だ。その二〇世紀のあり方が、二十一世紀にはもはや合わなくなっている。

 二〇世紀のあり方は、絶対論によっていて、国が大船のようになってものごとを進めて行く。経済では大きな会社が大量に物をつくって大量に売って行く。国が大船のようになってものごとを進めて行くさいに、偏執症(paranoia)のようになる。ものごとを積み上げていって計画して行く。準備していって、本番をむかえる。選良(elite)によるものだ。

 五輪は二〇世紀のあり方によるものだから、偏執症になっているのが見てとれる。IOC や日本の政権は、五輪を行なうことに偏執症のようにやっきになっている。これまでにものごとを積み上げてきていて、資本が投下されていて、計画されてきているから、それをぜんぶ無駄にするわけには行かない。

 大船に乗るようになるのは、国があと押しをしているからであり、その絶対論によるあり方が悪くはたらく。大船に乗っているのだから、まずまちがいはないだろうとなってしまう。

 大船がもっているまずさとしては、いざとなったさいに急に方向を転じることができづらいことだ。柔軟に環境の変化に応じづらい。小船であれば、急に方向を転じることができやすい。それとはちがって大船は一つの決まった方向にずっと進みつづけようとしてしまう。効率はよいものの、適正さを欠く。

 いっけんすると大船に乗っかっているのは安心ができるようでいて、じっさいにはそうではない。その大船をあやつっている船主である国は、じっさいにはひどく頼りない。大船をしっかりとうまくあやつる能力に欠けているのが船主である国の政権だ。グローバル化がおきているために、大船を自分たちであやつることができなくなっていて、どちらかといえば船主である政権は、あやつられていると言ってもよい。あやつられているのを、あやつっている(あやつれている)と見せかけているのである。

 何のために何をするのかがわからなくなっている。ただたんにずうたいがでかいだけであり、大船の中身はひどく空虚である。国は大船ではあるものの、どの方向に向かって何をしようとしているのかが定かではなくて、海のうえを漂流しつづけている。さまよいつづけている。

 海のうえを船で行くための航海の地図が古くなっている。手持ちの航海の地図が古くなっていて役に立たない。客観で正確な新しい航海の地図を日本の国は持っているとは言えそうにない。古いものしか持っていないので、新しい現実とのあいだにずれがおきていて、地図を更新することを迫られている。日本の国は地図を更新できていなくて、古い発想から抜け出せていない。自民族中心主義(ethnocentrism)のような絶対論の古いあり方が根づよい。

 日本の国が持っている古い地図はひどくゆがんでいて、世界の中で日本の国があたかも中心に位置しているかのように記されているものだろう。地図のゆがみを直すとすると、日本の国は世界の中の中心に位置しているのではなくて、東のはずれの極東(far east)にあり、小さい島国である。

 アメリカや西洋や中国のような普遍の文明国ではなくて、小さい文化の国にとどまるのが日本の国だろう。じっさいより以上に日本の国が大きいとするのは、日本の国内だけでは通じるが、外の世界では通じづらいから、等身大の日本の国のありようを客観にとらえることが政治家にはいる。

 五輪はとくに客観として大きな意味のあるもよおしとは言えそうにない。いまの時代はテレビよりもより小さいスマートフォンの時代だから、人それぞれで好みが細分化しているものだろう。みんなでいっしょになって同じものをともに楽しむのにはいささか無理がある。少なくとも、テレビが主流だったときよりもそれがしづらいのがある。テレビが主流だったときであっても、一方的に情報を押すかたちで流すと、それぞれの人の細かい好みには合わなくなる。

 情報を押して流すと、押しつけることになるのがあり、そこによさがある一方で、悪さもおきてくる。よさと悪さの両方があるのを見てみたい。よさである順機能(function)としては、情報を押して流すことでみんなでそれをいっしょになって消費できる。

 情報を押すことの悪さである逆機能(dysfunction)としては、押しつけられてしまう。ほかのものに逃れたくなってくる。押しつけられると引いてしまうのがあるし、うんざりしてくるのがある。押しで流されるものは、他者によって駆動されるものだから、自分が駆動するものではない。押しではなくて引きであれば自分が駆動できる。引きであれば自分の好みや個性に合わせられる。

 交通でいうと、五輪は押しの情報のところが強いから、逆方向の単交通だ。単交通は一方向の流れによるものだ。自から他へではなくて、他から自への流れが逆方向の単交通だ。受動で情報が押しで流される。五輪の一色に染まってしまう。ほかのいろいろな色がなくなってしまう。そこの悪い逆機能のところを見るようにしてみたい。

 よいものであるのが五輪だとして、よい順機能のところばかりが強調されているが、交通でいうと、五輪は逆方向の単交通だから、そこが欠点だ。五輪は受動で情報が押しで流されるものだ。そこの逆方向の単交通であるところにわざわいがあり、悪くはたらく。

 人それぞれで好みが細分化されているのがあるのにもかかわらず、あたかもみんながいっしょになって同じように楽しめるかのごときものだとしていて、五輪に大きな意味があるかのようにしがみついているのが政権だ。五輪に偏執症のようになっているのだ。五輪に(またはほかの何かに)しがみついているのは、それにしがみついていないと、海のうえを漂流していることの不安を隠せないからではないだろうか。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『失敗の研究 巨大組織が崩れるとき』金田信一郎 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『相対化の時代』坂本義和安部公房全集 第九巻』安部公房 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)