五輪は世界への約束だから、それをやらなければならないのか

 世界に約束したものが五輪だ。国際的な公約になっているのが五輪だ。だから五輪をやることがいるのである。そう言われているのがある。

 日本が世界にむけて約束した国際的な公約にあたるものが五輪なのだから、それをやることがいるのだろうか。もしも五輪をやることを中止したとすれば、日本は世界にむけて約束したことを破ることになってしまうのだろうか。

 約束を破ることが悪いことであるとして、あることが問題となるのかどうかは、主観によっているのがある。約束を破ることは行動だが、その行動が客観的に悪いとはできず、その行動にたいする反応がどうかがある。どういう反応があるのかが関わってくる。行動と反応は組みになっているから、反応しだいによっては、行動がとくにとがめられないことがある。

 おなじ行動をしたとしても反応がちがうことがある。おなじ行動をしたとしても、その時々によってあつかいがちがう。差別や不平等がおきていることをあらわす。あってはならないことではあるが、日本の政治ではこれがおきてしまっている。えこひいきがおきているのである。行動だけではなくて、反応が重みを持っていることをしめす。

 客観に問題があるとは言い切れないので、五輪を中止することが、客観として問題だとは言い切れない。主観として問題があるとは言えるので、五輪をやるにせよ、中止するにせよ、そのそれぞれに問題がある、またはないと見なすことがなりたつ。

 五輪から話を広げてより一般化して言えるとすると、五輪をやるか、または中止するかの話にかぎらず、さまざまなことについて、主観としては問題があると言うことがなりたつ。主観としてであれば、いろいろなことに問題があると見なすことができるから、五輪にかぎらず、日本の社会のなかには十分にとり上げられていないいろいろな問題があると言えるだろう。

 そもそもの話として見てみると、日本が世界にむけて約束したことだからといって、それを日本が何が何でもやらないとならないとは言い切れないのではないだろうか。

 国際的な公約となるものであるからといって、それを日本が何が何でもやらないとならないとは言い切れそうにない。大前提となる価値観からするとそう言えそうだ。

 世界への約束や、国際的な公約は、それをいついかなるさいにも絶対に守ることがいることを含意するものだとは言えそうにない。守られていない世界への約束や国際的な公約はないわけではない。

 日本の国が世界にむけて約束をするのだとしても、そこにはかなりあいまいさがある。日本の国の中にはさまざまな人たちがいるのだから、それらの人たちのすべての総意は何なのかは定かではない。かってに総意にしてしまってはまずいものだろう。

 哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は非真実だと言っている。日本の国にいるすべての人の総意とするのはおかしいし、世界の全体とはいったい何なのかはさらにばく然としている。世界の中には日本の国が含まれているから、日本の国が日本の国にたいして約束するところもある。

 日本よりもさらに広いのが世界だから、そこにたいして約束したといってもあいまいさをまぬがれない。形式として約束したからといって、内容が正しいとはかぎらないのがある。形式としての約束を使って、内容として悪いことを政治でなそうとすることもあるだろう。へんなのやおかしな約束も中にはある。約束をしたことの事実は、その価値がどうかとはまた別の話になる。

 結婚をするさいには相手を幸せにすることをちかう。そのちかいは必ず守られるとはかぎらない。愛がしだいに冷めてしまうことがある。もともと愛がなかったのにそれがあるといつわっていることがある。ちかいをしたのをやぶり、別々になって別れることが合理的なことも少なくはない。

 いろいろに守らなければならない義務が国にはあるとして、その中でとりわけ五輪だけを重んじるのはおかしい。とくに五輪だけを特別なものだと見なすのはおかしいのがある。

 五輪だけにかぎらず、日本が世界にたいして約束していることがほかにも色々とあるのだから、それらをきちんと守るようにするべきだ。日本の憲法は世界にたいしての約束や公約の面を持っているのだから、日本の国は憲法をしっかりと守ることがいるが、そこができていない。五輪よりも憲法を守るようにするべきである。

 どのような義務を日本の国は守るべきなのかでは、まず第一にやるべきこととしては、日本の国の中にいる人々や、世界の人々に危害が加わらないようにするべきである。国の中や外にいる人々に危害が加わらないようにすることがまず第一にやるべきことだろう。

 基本の人権(fundamental human rights)がしっかりと守られるようにすることがいるが、それが不十分になっているのが日本の国のありようだろう。人権を守ることがおろそかになっている中で、五輪をやることだけをとくに特別なものだとするのはおかしいのがある。日本の国が何をやるべきなのかをはきちがえている。

 約束や公約となっているから五輪をやらないといけないとするのであれば、もっとほかにより重んじられるべき約束や公約があるから、そちらを重んじることがいる。国の内や外にむけて日本が結んでいる約束や公約があるが、それらが破られていて守られていないことが少なくない。

 約束や公約のうちで、それらを破ったとしたら人々に危害が加わるようなことであれば、義務を果たすことがいる。五輪はどうかといえば、たとえ約束や公約となっているのだとしても、やぶったとしてもそれによってじかに人権が侵害されるのではないから、人々に危害が加わるものだとは言えそうにない。

 やぶったとしたら人々に危害が加わるような約束や公約なのであれば、それを国が守るようにすることがいる。人々に危害が加わらないようにすることは、完全義務(消極の義務)に当たるものだ。

 おなじ約束や公約であっても、五輪はどちらかといえば不完全義務(積極の義務)に当たるものだろう。たとえ五輪をやることを中止したからといって、それによってじかに人々に危害が加わり、人権が侵害されるわけではない。

 不完全義務に当たるのが五輪だとすると、それをやるように努力することはいるのだとしても、必ずやらないとならないとはかぎらない。特別な事情があれば中止することはしかたがない。たとえ五輪を中止したからといって、特別な事情があるのであればしかたがないのだから、客観の正当な理由があれば責められることは必ずしもない。

 もしも五輪を中止したとすると、日本の国が約束や公約をやぶったことになり、日本の国は責められることになるのだろうか。もしもそうであるとすると、日本の国はほかのことについてももっといろいろに責められなければならない。なぜかといえば、五輪ではないほかのいろいろなことについて、日本の国は国の内や外にたいしての約束や公約をいろいろに破っているのがあるからだ。

 たとえ日本の国がむりやりにでも五輪をやって、約束や公約を果たしたとしても、日本の国は五輪ではないそのほかのいろいろな約束や公約を平気で破りつづけている。五輪ではないそのほかのことについて日本の国はいろいろに批判されるべきである。五輪だけをとくに特別なものだと見なさないのであれば、そうしたことが言えるだろう。どのようなことをとくに特別なものだと見なすのかは、人それぞれによってちがうのだから、五輪ではないほかのことについてを特別なものだと見なすことがあってよいはずだし、それが価値や意味を持つことはしばしばある。

 参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武 『社会問題の社会学赤川学 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太(そうた) 『法哲学入門』長尾龍一