日本のウイルスの感染への対応を、社会契約説から見てみたい

 ほかの国に比べて、日本のウイルスの感染への手だては十分ではない。見劣りがする。それがあるとして、それはどういった原因から来ているのだろうか。それを社会契約説から見てみたい。

 社会契約説からすると、国家は人工のつくりものだ。自然なものではない。人々が契約をし合うことで国家の権力がつくられる。人工の産物なのが国家である。

 自然状態(natural state)つまり戦争状態だと人々の命が保てない。万人の万人にたいする闘争(the war of all against all)がおきてしまう。闘争がおきていると人々の命を保てないので、人々の命を保つために社会状態(civil state)をつくり出す。人々が契約し合うことによる。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、日本の政治は東京都で五輪をひらくことを優先している。優先順位(priority)として五輪をひらくことを上位に位置づけている。これを社会契約説から見てみられるとすると、日本の社会の中よりも、五輪をより社会状態にしようとしている。五輪に関わる選手や関係者の安全をより優先しているので、日本の社会の中を社会状態にして行こうとするのがおろそかになっている。

 五輪を優先させてしまっていることもあり、日本の社会のなかの一部で社会状態がなりたっていない。社会状態が破れてしまっていて自然状態となっているところがおきている。ぜい弱性が高いところは社会状態になっていなくて自然状態となっているのだ。

 社会契約説で見てみれば国家は人工のつくりものだが、日本の政治では国家は自然なものだと見なすのが強い。あたかも国家が自然なものだと見なすのが強いので、社会契約説がないがしろになっている。権力をもつ政治家を性悪説では見ないで性善説で見てしまう。社会契約説は性悪説によるものだから、そこからすると政治家を性悪説で見ることになる。

 社会契約説が弱いために、国家を自然なものとしてしまうのが強いのが日本の政治ではある。そこから国の政治の権力が一強や一権になっていて、抑制と均衡(checks and balances)が弱い。オオカミと羊がある中で、オオカミに頼ろうとしてしまう。オオカミを頼ることや信じることがあだになっている。

 国の政治の権力がオオカミに握られてしまっているのが日本の政治ではおきているので、一強や一権となっていて、抑制と均衡が失われている。お上がオオカミになっていて、それに頼ろうとしてしまう。オオカミは羊の命を救わない。羊を助けない。自助や自己責任だと羊を冷たくつき放す。オオカミの本音としては、弱い羊は命を失ってもしかたがないのだと見なす。新自由主義(neoliberalism)のあり方だ。

 弱い羊ではなくて強いオオカミが国の権力を持ってしまっているので、そこから社会契約説が弱くなり、国家を自然なものだと見なすのが強まる。社会契約説が弱まるので、個人の命を重んじようとはしなくなる。

 個人の命を重んじないで、個人の命が危機にさらされれば、社会契約説では契約が解かれることになる。個人は自分の命を守る権利があり、他がうばうことができない基本の人権(fundamental human rights)をもつ。個人の命が失われるようなことになれば、(その個人にとっての)社会契約の正当性はなくなるのだ。

 社会契約の正当性が失われるような、個人の命が危機にさらされるようなことが日本の社会では部分的におきている。それは社会状態がくずれて部分的に自然状態がおきていることをしめす。すべての個人の命がみなひとしく重んじられているのではなくて、ある人はぜい弱性が高く、別の人は特権によって優遇されているのがおきている。

 与党である自由民主党は、いまの憲法を改正することにやっきになっていて、憲法を壊そうとしているが、これは社会状態をくずして自然状態になることをうながす。国家の権力が強まり、ますますオオカミ化するからだ。国家の公が肥大化して、個人の私がどんどん弱まって行く。自民党は社会契約説をないがしろにしていて、国家の権力が人工のつくりものであることを隠す。国家があたかも自然なものであるかのような神話作用を広めている。そのことが悪くはたらいているのがあると言えそうだ。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『愛国の作法』姜尚中(かんさんじゅん) 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『公私 一語の辞典』溝口雄三