悪いできごとはすべて陰謀のしわざだと言うことができるのか

 自国を愛することによる行動はつねに正しい。まちがうことはない。不正がおきたのだとしてもそれはつねに敵となる相手の陰謀であるのにほかならない。敵となる相手が陰謀によって愛国者であるわれわれをおとしめようとしている。そのように見なすことにまずいところはないのだろうか。そこに見てとれるのは原因と結果の線(linear)による物語だろう。

 原因と結果の線による物語は現実そのものだとは言い切れそうにない。現実にたいしての一つの見なし方ではあるが、そこにはこうなったらこうなるだろうとかこうなったらこうなるのにちがいないといった二つのものごとの結びつけがある。結びつけられた二つのことはもとはそれぞれが別個のことがらなのがある。じつは結びついていないことがあるから気をつけたい。原因と結果の因果性についてをまちがってかんちがいしてしまうことがあるとされる。

 陰謀理論をたやすく持ち出してしまうと、それによってものごとの説明はできてしまうのはあるが、それは原因と結果の線による物語を当てはめることになる。その物語と現実とのあいだに隔たりがおきることがある。

 不正となることがおきたのだとして、その現象がどのような原因(cause)によって引きおこされた結果(result)なのかを見て行く。そのさいに結果から原因をさかのぼって見て行くことになる。おきた結果となる現象にたいして原因を探って行くさいにいることとして、民間のトヨタ自動車で行なわれている、なぜの問いかけをくり返し問いかけて行く手だてがある。

 おきた結果となる現象の表面だけを見ていても原因はわかりづらい。原因を探って行くさいにはなぜの問いかけをくり返し問いかけるようにしていって、さまざまな要因をとり上げて行く。さまざまにある要因をもれなくだぶりなく見て行く。MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)である。

 おきたことについてを陰謀のしわざだとすることはてっとり早いものではあるが、MECE によってもれなくだぶりなくさまざまな要因をすべてくまなく見て行くことにはならないものである。一つの原因と結果の線による物語を当てはめてすませてしまうのではなくて、その物語をとることによって切り捨てられて捨象されてしまうことを色々にとり上げて行きたい。

 原因と結果の線による物語は編集されていて取捨選択されたものだ。物語の中にはひろわれているものがある一方で切り捨てられているものがある。切り捨てられているものの中に大切なことがあることがあるから、切り捨てられているものに目を向けるようにして行きたい。

 不正となることがおきたさいにその危機に対応するのかそこから回避しようとするのかが分かれ目となる。いたずらに陰謀を持ち出すのは危機から回避しようとすることに当たる。危機にまともに対応しようとすることにはなりづらい。

 情報の技術が高度に発達しているいまの世の中の状況をくみ入れられるとすると、陰謀を持ち出すことによって危機から回避することができるように見えるとしても、じっさいにはそれはできづらい。危機から回避することができづらいのがあるから、危機にまともに対応していったほうがわりに合う。そう言うこともなりたつ。

 情報の技術が高度に発達している中で、いっけんすると本当のことだと思えるような嘘が流れてしまう。本当のことだと受けとれるくらいの嘘がまかり通ってしまうのはあるが、そのいっぽうで嘘がかんたんにわかってしまうのもまたある。嘘がばれやすいところもまたあるから、危機から回避しようとしてもそれをしづらいところがある。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の因果関係からの議論によって見てみられるとすると、一つの原因と結果の線による物語だけで現実を説明しつくせるのだとは言い切れそうにない。陰謀が原因となって悪いことが行なわれたとする物語では、その二つを線によって結びつけて物語にしている。その結びつけがふさわしくないことがある。

 陰謀が原因になって必ず悪いことが行なわれるとは言い切れそうにない。その物語がいついかなるさいにも必ず当てはまるのだとしてしまうと、原因と結果が循環する循環論法になってしまいかねない。悪いことが行なわれたとして、そのことを陰謀だと呼んでいるのにすぎないことになる。

 原因と結果の線による物語についてをいろいろに見られるとすると、陰謀が原因にならなくても悪いことが行なわれることはしばしばある。いついかなるさいにも陰謀が原因になって悪いことが行なわれるとはいえそうにない。陰謀とはちがうことが原因になって悪いことが行なわれることはいくらでもあることだろう。

 まちがいなく原因と結果の線による物語がなりたっているとは言い切れないから、原因と結果との結びつきをほどいてみることがなりたつ。原因と結果の線による結びつきがなりたっているかどうかを見るさいにはそうとうな労力がかかるから、そのことを客観に証明するためにはほかのいろいろな点についてを十分に見て行かないとならない。

 陰謀だけが十分原因となってその結果として悪いことが行なわれるのではなくて、一つの結果となる現象にたいしてはいろいろな必要となる原因がかかわっていることがある。いろいろな必要となる原因があって一つの結果となる現象がおきることがあるから、そうであるとするとそれらのいろいろな必要となる原因のどれかが欠けていれば結果となる現象はおきない。

 いろいろな意味あいを意味してしまうのが陰謀の言い方にはあるとすると、それが具体として何をさし示しているのかがはっきりとはしない。修辞学では多義またはあいまいさの虚偽があるとされていて、一義ではなくていろいろな意味あいをもつような多義性やあいまいさがあると形式として虚偽になるのがある。陰謀とはいってもそこにぼんやりとしていてばく然としたところがあるとすると、現実から離れた虚偽の物語になってしまいかねない。そこに気をつけておきたい。あらかじめ一方的に決めつける形ではなくできるだけ中立な形でそれが具体として何をさし示すのかを特定化して明確にして行きたい。

 参照文献 『世界の陰謀論を読み解く』辻隆太朗(りゅうたろう) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳