だれが国の長であるかによって、どれくらいその国のよし悪しは左右されるものなのだろうか

 アメリカのドナルド・トランプ大統領が大統領でなくなればアメリカは国として終わる。トランプ大統領ではなくて民主党ジョー・バイデン氏が大統領になったらアメリカは駄目になる。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 ツイートで言われているようにトランプ大統領が大統領でなければアメリカは駄目になってしまうのだろうか。そのことについてを原因の帰属(特定)の個人の要因と状況の要因によって見てみたい。

 だれが国の長なのかと、その国がどうなのかは、それぞれが別の二つのことがらだ。その二つは必ずしも自動で連動してつながり合っているものだとは言えそうにない。どういう人が国の長であるかによって、その国がどうなるのかは自動で連動してそのことだけをもってしてよくなったり悪くなったりするのだとは言えそうにない。

 いっけんするとどういう人が国の長になるかによって、そのことと自動で連動するような形でその国がよくなったり悪くなったりするように見える。そう見えるのがあるのだとしても、そう見えることがそのままじっさいにそうなのだといえることになるとはかぎらない。

 手がらは自分のものにして、よくないことは他の人のせいにする。うまくいったことがあれば自分の力によるのだとして、うまく行かなかったことは自分のせいではなくて他の人が悪いのだとする。そうすることがあるが、これは原因の帰属を何に当てはめるのかによっている。うまくいったことは原因の帰属を自分に当てはめて、うまく行かなかったことは原因の帰属を自分には当てはめずに状況に当てはめる。

 国がうまくいったりうまく行かなかったりすることをすべて国の長がどういう人なのかによるのだと見なすことはできづらい。国がうまくいっているのかそうではないのかをすべて国の長がどういう人なのかによっているのだとしてしまうと、原因の帰属を個人の要因で見なすことになる。そうすると基本の帰属の誤り(fundamental attribution error)におちいることになり、誤った見かたになっているおそれがある。

 この人が国の長であれば国はまちがいなくうまく行くから絶対に安心だとするのは、個人の要因で見ているものであり、基本の帰属の誤りになっているものだろう。それと同じように、この人が国の長であれば国はうまくは行かないから絶対に駄目だとするのもまた個人の要因で見ているものであり基本の帰属の誤りになっているおそれがある。

 どういう人が国の長になるのかはまったくどうでもよいとかまったくとるに足りないことだとはいえないものであり、それなりに重要なものであるのはまちがいない。それはあるものの、どういう人が国の長になるのかに大きく重みをもたせすぎると個人の要因で見すぎることになる。そこから基本の帰属の誤りになることがあり、状況の要因をとり落とす。

 何でもできる人や何にもできない人はいないのがあるから、この人が国の長であれば何でもできるとは言えないし、この人が国の長だから何にもできないとも言いがたい。一〇〇パーセントの完ぺきな有力さをもっている人はいないだろうし、一〇〇パーセントの無力さをもっている人もまたいない。

 できることとできないことがあるとすると、それぞれの人ができることとできないことの二つを持っていることになる。この二つがある中で、どの人が国の長であったとしても、まちがいなく国をよくすることはできないのではないだろうか。たしかに国をよくすることは、できることではなくて、できないことに属する。

 たしかに国をよくすることができるとするのは誤りであり、それは頭の中で思い浮かべることはできるのだとしても、あくまでも机上によるものであり、じっさいにはどう出るのかがわからない。机上ではこうだと言えることであったとしても、現実にそれをやったさいに予期せぬことが色々におきてくることは少なくはない。予期しないことが色々におきることをあらかじめくみ入れるようにして、それがおきたさいにどうするのかをあらかじめ見こしておく。それが不確実性への備え(contingency plan)だ。不確実性への備えが欠けていると、いざとなったさいに負うことになる傷や痛手が深く大きくなってしまう。

 うそやはったりでもつかないかぎりは、国のことをまちがいなく絶対に確かによくできるとは言いがたいものだろう。それを言い切ることができづらいのは、一つのことについてたった一つの意見しか出ないのではなくて、さまざまな異なる意見が出ることがしばしばあることによる。さまざまに異なる意見がある中で、そのうちのどれが正しいのかははっきりとはしづらい。

 どれが正しいものなのかを無理やりに力づくで強引にはっきりさせて、この意見だけが唯一として絶対に正しいものだとしてしまうと、ほかのさまざまな意見を切り捨てることになってしまう。それだと危ないことになりかねないから、いろいろにある中でどれが正しい意見なのかをまちがいなくこれだとは言い切らないようにしておく。そのほうがやや安全だ。

 できることとは別にできないことに目を向けられるとすると、非の打ちどころがないような唯一として絶対かつ完ぺきに確実に正しいことが何なのかはだれにもわかりづらい。それをはっきりとさせることは、できることではなくて、できないことに属するものだろう。

 できないことはそれが制約になっていることだから、その制約がある内であれば合理性があるが、その外に出ようとしてしまうと非合理性によることになる。まったく何の制約もないのならすべてができて、できないことは何もない。制約があるのならできないことがいろいろにあり、制約の内と外に分かれる。たしかに国をよくすることは制約の外にあるものだとすると、制約の外のことは非合理だから、制約の内においてやって行く。たしかではない中でやって行く。そのほうが少しは合理性があるだろう。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一